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の・ぶ・ろぐ   ・・・・・・・・・・  作曲家・信時潔の人と作品に関する最新ニュースや、日々思いついたことなどを書いています。
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小泉文夫について書かれた本、岡田真紀著『世界を聴いた男 小泉文夫と民族音楽』(平凡社 1995)の中に、意外にも「信時潔」という文字を見つけた。第一章の、小泉文夫が高校生だった頃の話として、「器楽合奏以外に男[声]合唱も楽しんだ。小泉の趣味は少し他の人と違っていて、西洋の古典音楽よりもむしろ山田耕筰や現代音楽といえる信時潔や高田三郎の抒情的な歌曲を好んで歌っていたという」の一節。

これをきっかけに思い出したので、書き留めておこうと思う。小泉文夫は、かつて東京混声合唱団の「合唱の歴史連続演奏会」(1959)のプログラムに掲載された「日本の合唱 古代から明治大正時代まで」の中で、「洋楽の直輸入の次に当然来るべき課題は、伝統との結合という問題」 「だが今日までつづいているこの問題の解答は、簡単に得られないでいる。山田耕筰のあとの最も注目すべき作曲家は信時潔であるが、氏の場合は、極端な抒情性の追及に走らず、ドイツ風の格調正しい和声体系の上で、簡潔な日本的表現に向かっているようである。交声曲「海道東征」は、合唱音楽におけるその最高の成果といえよう。」と書いている。

小泉文夫は「海道東征」を聴いたのだろうか。「海道東征」が初演された1940年は、小泉文夫が13歳で、府立四中(現都立戸山高校)に入学した年である。同校で、安部幸明の指導を受けている。1944年に旧制第一高等学校(現東京大学教養学部)理科乙類入学、音楽班に入り、ヴァイオリンや合唱の指導をうけた。合唱を指導した高田三郎は信時潔門下でもある。そのような学生なら、おそらく1940年~44年の間に「海道東征」を聴いていただろう。自らの経験もなく、なにかほかの資料を元に「最高の成果」と評したとは考えられない。まだ「戦後」の影響が大きく、朝日放送の「海道東征」再演(1961年)以前の、1959年という時期において、このような評価をしているところが興味深い。

同じ民族音楽学者の小島美子による「民族的な音楽への先駆者たち」(『音楽の世界』連載)などは、信時の音楽は、民族音楽的に「良くない」音楽であるかのように、コテンパンにやっつけている感があり、この小泉の一文を見つけたとき、少しホッとしたというのが正直な気持ちだった。

小泉の言う「簡潔な日本的表現」とはなにか。それがどこにあるのか。次の世代の研究者が、別の言葉で表現してくれればと願っている。

          参考:  小泉文夫記念資料室「小泉文夫年譜」
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「海道東征」の上演記録をリストにしてみました。

東京音楽学校はもちろん、放送、アマチュア楽団・合唱団、藤原歌劇団、宝塚歌劇団、日劇ステージショウまで・・・上演データは現在62件あります。(イコール公演回数ではありません)


リストの掲載場所は
「信時潔研究ガイド」 http://home.netyou.jp/ff/nobu/index.html
の中の、「雑記帳」のページ http://home.netyou.jp/ff/nobu/page028.html
の 20番です http://home.netyou.jp/ff/nobu/page066.html#lcn020


地方での公演など、つかみきれていないものもたくさんあると思われます。
リストにない上演など、情報をお寄せください。

「海道東征」パート譜の謎1 から読む

夏の午後、東京藝術大学附属図書館を訪ねました。事前に閲覧したい資料についてお願いして用意していたので、貴重資料閲覧コーナーで、すぐに実物に対面できました。

今回問題にしているのは、パート譜の袋に入っているもののうち、
  資料1. Kleine Besetzungと書かれた3パートのスコア
       (ホルンIII、 トランペット I と II、 トロンボーン I と II)
  資料2. 1のスコアのうち ホルンIII、トロンボーン I および II のパート譜
  資料3. コントラバス、ファゴット II のための 「Note」
  資料4. 五線紙に書かれたメモ (パート譜作成などについてのメモ書)

の四つの資料です。

まずは資料1を見ていきます。
資料を見るなり、藤田先生は「書いたのは私です」と。パート譜(資料2)もご自身で書かれたものだそうです。戦後の再演なので、出版された共益商社書店のスコアを使用していたことでしょう。そこで、今回は先ごろ作成した「海道東征」の研究用複製版を持参して、Kleine Besetzung の譜にある各パートの音と見比べていきました。 

まず第一章「高千穂」。T.11(第11小節)(p.2)のトランペット II は、原譜(ここでは共益商社書店のフルスコアを指します。以下同様。)では Aですが、Eになっています。これはホルンIVの音を持って来ているのだそうです。

第三章「御船出」のT.7(p.25)のトロンボーン I の A の音は、ファゴットの I が吹き(原譜では休符)、トロンボーン I, II が原譜のトロンボーン II, III の音を吹いています。 T.28から30(p.28)では、4本のホルンの和声を、ホルン3本に収めています。 原譜のT.48(p.30)のホルン IV の音はファゴットに吹かせています。 このようなケースでは、ファゴットのパート譜は改めて作られていないので、昭和15年初演以来のファゴットパート譜に書き込まれていました。同様に資料2のパート譜が無い楽器の音の訂正は、初演以来のパート譜中に色鉛筆やペンで書き入れたり、時には五線紙を切ったものに書かれてセロテープで貼ってあったりします。

資料3を見ていくと、第一章「高千穂」のT.13~14で、コントラバスが低い D を弾いています。これは、原譜のコントラファゴットの旋律(p.2)をコントラバスに弾かせたもので、五弦のコントラバスを持っていて、それを使ったのだろうとのこと。(四弦のコントラバスの最低音はE)

ほかにもイングリッシュホルンの音はクラリネットに入れるなどの対処がとられていました。

つまり、資料1~4の楽譜では、原譜のホルンを1本減らす(IVを省く)、トロンボーンを1本減らす(IIIを省く)、イングリッシュホルンを省く、コントラファゴットを省く。そのために、和声的に不足が無いようにそれらの音をほかのパートに振り分けてある、というのが、藤田先生のご判断でした。

今でこそ、演奏家はたくさんいますが、当時は吹き手が少なかった。「この手の職人芸ができないとショーバイできなかったですから」と藤田先生。

資料4のメモ書きに
Make new parts      
3rd Horn,  1st Trombone, 2nd Tronbone.
 Must change notes
1st Oboe, 2nd Oboe, 1st  Clarinet,  2nd Clarinet, 1st Bassoon, 2nd Bassoon, 1st Horn, 2nd Horn, 2nd Trumpet,  C. Bassi
 Celli only 1 place

とあるのは、この編曲の結果の処理の指示です。

パート譜の中には「Art University Tokyo」と名の入った五線紙があるので、戦後芸大関係の演奏に使われた別のものか?と一瞬思いましたが、藤田先生に確認すると「芸大の売店で買ったもの」とのこと。なるほどそれも有り得る、と納得。

「海道東征」の放送用録音のために、このような楽器編成にする必要があったインペリアル・フィルハーモニーとは、ABC交響楽団の約8割の人が移って結成されたもので、その後、そのメンバーの多くは読売交響楽団結成に向かっていきます。詳しくは木村重雄著「現代日本のオーケストラ : 歴史と作品」に書かれている、とのこと。(ということは木村重雄の記述内容が藤田先生のお墨付きということになります)

この「海道東征」編曲・・・というか、オーケストラの人員に合わせた書き換え・・・は、藤田先生が行ったことは確認されました。

それでは、このお仕事をされた藤田先生はその練習や演奏当日に立ち会わなかったのでしょうか?
藤田先生は、しばらく考え込まれた様子でしたが、やはり記憶は無い、と。ちょうど読売交響楽団結成準備に奔走していた頃で、大変忙しかったようです。読売交響楽団の発足は、この録音の4ヵ月後の1962年4月です。

今回の調査に、藤田先生にご一緒いただく前には、このような些細なこだわりに、先生をお呼びたてして良いものか、と躊躇しました。しかし本当に熱心に楽譜を見てくださり、スコアの読み方も怪しい私に、丁寧に解説してくださって、本当にありがたいことでした。

実は、私がこの「Bearbeited」とある楽譜を見つけたときに、ほとんどこれしかオーケストラ曲を書かなかった信時の拙い曲を、まともに響くように直したのかもしれない、と思いました。大規模な作品はなく、歌曲、合唱曲、ピアノ独奏曲を書いていた作曲家です。もしかしたら、後の世代から見れば、管弦楽作品として、マズイところがあったのではないか。この楽器にこれを吹かせるのはおかしいとか、この楽器はこのようには普通は使わないとか。それを、より良い管弦楽曲に「Bearbeited=書き直した」のではないかと思ったのです。しかし、今回の藤田先生からは、そのような言葉は一切出ませんでした。(思っても云わない、思っても書き直しはしない、ということかもしれませんが。)原曲に敬意を払い、原曲の響き(和声)を損なわないように、今回演奏するオーケストラで演奏可能なように、編曲されたものだったようです。

資料の閲覧を終えて、藤田先生が学生時代からよく知っているというキャッスル(芸大音楽学部の食堂)で、しばし音楽界、オーケストラ、芸大学生時代の話などを聞かせていただきました。帰りは、暑いのでタクシーで駅まで、と申し上げたら、「いえ、私は歩きます」とキッパリ仰った先生。私の父よりわずかに年上でいらっしゃいますが、今も頻繁に大阪でのお仕事に往復されるほどお元気なのは、車を使わずに、とにかく歩くからだそうです。なおお元気でご活躍くださるよう、願うばかりです。

 (この項終わり)

「海道東征」パート譜の謎1 から読む

藤田由之先生からのお電話の主旨は次のようなものでした。
 
1961年12月というのは、ちょうど読響のメンバーを集めていた頃。再演放送のオーケストラ「インペリアル・フィルハーモニー」というのはABC交響楽団から抜けたメンバーで、そのための編曲だということは、自分だったかもしれない。来てもらっても、どこかに出かけても良いので、その楽譜と、更に原曲のスコアを見れば、何のために編曲したのか、思い出せると思う。
 
ここまで仰っていただいたなら、楽譜を一緒に見ていただくしかありません。あれこれ算段をつけて、パート譜実物を所蔵している東京芸術大学附属図書館までご一緒いただき、閲覧することになりました。

 さて、ここで1962年再演放送のことを記録しておきます。
 
 再演までの経緯は、当時のプロデューサーだった阪田寛夫先生の小説「海道東征」(『うるわしきあさも』(講談社文芸文庫)に再録)に、詳しく書かれています。

 録音は1961年12月28日に行われ、1962年1月3日、キューピーマヨネーズの提供で放送されました。

 私の手元にある当時の録音テープでは、最後にアナウンサーが演奏者を読み上げていました。(阪田先生の小説「海道東征」の中で、信時潔が1962年の1月3日に「妙蓮寺」・・・というのは当時三男・三郎が住んでいた場所・・・で、テープで録音しながらラジオ放送を聴いたという、そのテープです。) 

 独唱 伊藤京子 蒲生能扶子 戸田敏子 中村健 中山悌一
 管弦楽 インペリアル・フィルハーモニー
 合唱 コールメグ ABC女声合唱団 東京コラリアーズ 
   西六郷少年合唱団
 指揮 前田幸市郎
 合唱指揮 大中恩
 解説 村田武雄
 
放送では、編曲については、とくに言われていませんでした。

なお、村田武雄氏の解説は、非常に的確に、わかりやすい言葉で、各章の内容を紹介しているので、テープから聞き取ったものを次に書き留めておきます。

 ------------------
第一章 高千穂 
 これは輝かしい国の賛辞を述べる全曲の荘厳な序章です。バリトンとテノールの独唱、ならびに合唱で歌います

第二章 大和思慕
 はるかに大和を想う優雅な抒情歌です。蒲生能扶子さん、伊藤京子さん、戸田敏子さんのメゾ・ソプラノ、ソプラノ、アルトの女声独唱と重唱です。

第三章 御船出
  朝日が出で、輝かしい船出の様をアルト独唱と合唱とで歌う「御船出」。

第四章 御船謡
  バリトンの中山悌一さんが、ピアノの伴奏で語るように船出を告げる、おおらかな中に素朴な楽しさのあふれる楽章です。

第五章 速吸と菟狭
  (解説部分のテープ録音が途切れているため聞き取り不能)

第六章 海道回顧 
  長い年月重ねた船旅の数々を想い起こして、独唱ならびに合唱で歌います。

第七章 白肩の津上陸
 海辺の激しい戦いの嵐と、進軍の様とを描いていきます。

第八章 天業恢弘 
  建国の大業の成った歓喜と祝典とを、独唱と合唱とで歌い寿ぐ終曲です。


以上のように、録音当時の状況を復習してから、芸大図書館へパート譜の閲覧に伺ったのは、7月も半ば過ぎの暑い日の午後でした。 (つづく)



 

 


 

「海道東征」パート譜の謎1 から読む

昨日「思いがけないヒント&チャンスが訪れた」と書いたのは、4月7日、日下部吉彦先生が構成・司会なさった日本合唱協会の演奏会で、信時潔作品も採り上げられ、面識を得たことが最初のきっかけでした。

かつて、小説「海道東征」(『うるわしきあさも』(講談社文芸文庫)に再録)を書かれた阪田寛夫先生から、日下部先生が昭和37年朝日放送の海道東征再演の折に、スタッフの一人としてかかわっていたと伺った覚えがありました。今回は、日唱に知り合いがいたこともあって、演奏会打ち上げ会場にお邪魔して、帰りがけに日下部先生にご挨拶申し上げたところ、「ちょうど昨日、合唱連盟の「ハーモニー」の新譜案内に『信時潔作品集成』の原稿を書いたけど、その信時さん?」などという話になったのでした。

その後、岩手大学の海道東征スコアの件などもあり、資料を何度もひっくり返して見直していたときに、ふと、芸大所蔵のパート譜のなかに、初演年代と違う年が書かれた譜があることに気づきました。

一連のパート譜(バス・テューバを含む)とは別に、戦後かかれたものらしい楽譜があったのです。
ひとまとまりのパート譜として袋に入っていたので、まったく由来の同じものだと思い込んでいたのですが、いざ見直してみると、違うグループがあったのです。

スコア風のものが1部と、それに関連するらしいパート譜(3部)がありました。
スコアの表紙に Kleine Besetzung, Kaido-Tosei / K. Nobutoki / Bearbeited  von  ・・・ とあるところまでは、読めたのですが、そのあとの名前は、達筆過ぎてすぐには読めませんでした。 
五線紙は、数種類あるようで、よくある「文房堂」などのほか、「The Art University of Tokyo」とあるものもあります。楽譜末尾の日付は「1st December 1961」とあります。

表紙の筆記体のサインをはじめとして、全体的にドイツ語を書きなれた様子(よく使われる音楽用語や英語ではなくドイツ語だったので)なので、時代と状況、交友関係から考えて、Manfred Gurlitt ではないかと、彼のサインを探して見比べたりもしてみましたが、どうも違います。 しかも書きなれた風のドイツ語と同じ文字の勢いで日本語の「高千穂」「大和思慕」といった漢字も書かれているので、やはり日本人か・・・?しばらく悩みました。

ある時それが Y. Fujita ではないかと思いつき、オーケストラ楽譜に・・・FUJITA とは?・・・それはやはり藤田由之氏しかいない、と思いはじめました。実はかなり以前のことですが、まったく別の仕事で藤田先生のお宅をお訪ねして、日本のオーケストラ、とくに近衛秀麿と彼が関わったオーケストラのことなど、お話を伺ったことがありました。オーケストラの楽譜を書き換えて「近衛版」として演奏していた話を思い出したのですが、その弟子であった藤田由之氏自身もオーケストラ作品の編曲などをしたのかどうか。音楽評論家として知られる藤田先生がスコアの放送用編曲?・・・それについてはいまひとつ確信がなく、数日考え込みました。その時です。朝日放送再演の折に放送局の仕事をしていらしたという日下部先生に、伺ってみようと思いついたのです。幸いお名刺を頂戴していましたので、すぐに連絡がつきました。もちろん長いこと放送局、そして音楽界でお仕事をなさっていらして、その中のひとつの放送の細部を覚えているか、などと聞かれても困ってしまうだろうとは重々承知していたのですが。なにか少しでもヒントがあればと、勇気を出して、連絡してみたのです。

折り返しのお返事で、「1961年再演(1962年正月放送)の折に、オーケストラ関係のことを藤田由之さんにお願いしたことは事実」とのこと。しかも近いうちに、その藤田氏と仕事で会う機会があるので聞いてみましょう、とまでおっしゃってくださいました。

そして、6月29日の夜、「日下部さんから話を聞きました」と、藤田先生ご自身から、お電話を頂戴したのでした。 (つづく)
東京藝術大学附属図書館には、「海道東征」のパート譜が保管されています。これは、初演者だった同大学(元・東京音楽学校)が大切に保管してきたもので、通常の図書館資料のようにカード目録やOPACでは検索できないため、あまりその存在が知られていなかったようです。
(注・特殊な資料ですので閲覧・利用希望の際は事前に図書館にお問い合わせください)

そのパート譜は、以前こちらに書いたスコア(現在岩手大学で保管されている手書きスコア)と同様に、「財団法人日本文化中央聯盟」の印があるものです。この印があるということは、初演の時に作られたものであることは確実です。以後、上演のたびに使われてきたもので、演奏のための書き込みは勿論、中には上演した日付や演奏した人のサインがあるものもあります。

パート譜一式の中で、少し様子が違っているのは、Bass Tubaで、ほかのパートのような「財団法人日本文化中央聯盟」印がありません。楽譜の末尾には「2602.7.13 K.Oishi」(Oの上に伸ばす印の)とあり、テューバの大石清氏とわかりました。そこで、『大石清の助手席人生 テューバかかえて』 (音楽之友社)という本を確認してみたところ、「音楽学校へ入学し、国内各地はもちろん、満洲演奏旅行でも毎回も演奏した。軍隊へ入るまでの在学中の演奏曲はほとんどこの「海道東征」一曲だけのような印象が強い。」という記述がありました。大石氏は昭和17年4月、東京音楽学校に「入学したもののテューバの先生はいない、まともな楽器もない、教則本も楽譜もない」状態だったとのこと。当然信時潔作曲「海道東征」にもテューバパートはありませんでしたが、大石氏入学を機に、テューバパートが加わったようです。同書には「当然楽譜もないので、編曲をしなければならない、この時、岩井と萩原の力量が発揮された」という記述があり、「海道東征」もそうだったとすれば、同級の岩井直溥(当時ホルン専攻)、萩原哲晶(当時クラリネット専攻)両氏の協力もあったようです。

芸大所蔵のパート譜は、このBass Tubaパート譜を含めて、一式として揃っているのですが、実は、それらとは別の楽譜、戦後上演された時のパート譜が一緒に保管されていました。 とくにこの点について、ぜひ確認しておきたいと思っていたところ、偶然思いがけないヒント&チャンスが訪れて、7月のある日、ふたたび芸大図書館を訪ねたのでした。 (つづく)
岩手大学所蔵の「海道東征」の手書きスコアは、信時潔の妻ミイが筆写したものであり、初演以前の歌詞やタイトルの訂正などもある、極めて初期の総譜である。 訂正や演奏用の書き込み、初演時の演奏者名の書き込みなどは他筆だが、一部に作曲者が書き入れたらしい訂正加筆部分もある。「財団法人日本文化中央聯盟之印」があることから、おそらく作曲者が、委嘱団体「財団法人日本文化中央聯盟」に納めたスコアだとおもわれる。なお、同じ印があるパート譜は東京芸術大学附属図書館に保管されているが、そこにはスコアは残っていない。
 ― * ―  ― * ―  ― * ―  ― * ―  ― * ―  ― * ― 
 
以上が、岩手大学で実物を確認した上で、明らかになったことです。  

「財団法人日本文化中央聯盟之印」が押印された頃には、おそらく一緒に保管されていたであろう「スコア」と「パート譜」が、何故別の場所に、岩手大学(スコア)と東京藝術大学附属図書館(パート譜)に、保存されていたのでしょうか。

「海道東征」は、昭和15年11月の初演以後、各地で演奏されています。管絃楽スコアは、昭和18年に出版されましたが、コピー機の無い時代のこと、パート譜は初演時の一式しかなく、演奏のたびに各地を――日本全国のみならず、満洲までも――渡っていたものと思われます。主な演奏団体だった東京音楽学校に、そのパート譜は残され、かといって一般資料と同じに登録されたわけではなく、書庫の奥深くに保管されていました。  

では、スコアは何故、上野の杜からはるか遠く、岩手で見つかったのでしょうか。 先にも触れたように、岩手大学に収められたのは、比較的最近のことで、元は岩手県一関市に住んでいた方が、疎開してきた荷物のなかから見つけたもので、廻り廻って岩手大学にたどり着いたとのことでした。
 
実は、ひとつだけ気になるエピソードがありました。昭和18年に共益商社書店より、「海道東征」の管絃楽スコアが出版されています。その出版準備中に、楽譜が無くなってしまったことがあった、出版社のお使いの人が、代わりの楽譜を借りに来た、というような話が、信時家に「わずかに」伝えられていたのです。それを伝え聞いた人も、当時は子供だったので確かな記憶・情報とは言えないし、そのことで誰かを責めるとか、責任を問うようなことになってもいけないので、公にはしていませんでした。

紛失なのか、盗難なのか・・・何があったのかはわかりませんが、何かよろしくないことがあったとしても、60年も過ぎればどう考えても時効です。何よりも、捨てられず、焼かれず、戦災にも火災にも遭わず、作曲・初演・出版された東京からはるか離れた岩手の地で大切に保管されていたことに、感謝するしかありません。
 「大切に受け継いできてくださったみなさま、どうもありがとうございます。」

今回は、わずか半日の閲覧で、詳細な検討を尽くすことはできませんでしたが、楽譜の所在の確認と、概要の把握はできました。今後の研究・検討用に出版譜の複製も整いました。 録音も、現在では複数入手できるようになっています。

材料は揃いつつあります。今後更なる研究が進むことを期待して、この項を終わりたいと思います。

(完)
先にも書いたとおり、潔による自筆譜と、ミイによる筆写譜は、大抵はざっと見ればどちらかわかります。ただし、潔が「よそ行き」に清書した、丁寧に書いた譜と、ミイの筆写譜はとても似ていることがあるのです。

それでも、いくつか違いを確認するポイントがあります。ト音記号のクセ(潔は細長く、ミイは上の丸がやや大きく右側に飛び出す)、音符の書き方(潔は四分音符などの黒丸も細いことが多く、ミイは丸い)、特に八分音符の符尾のクセ(下に伸びる8分音符単音の、潔の符尾は直線的、ミイは曲線的)、そのほかひらがなの特徴、署名も結構参考になります。

今まで漠然と思っていたそのようなことを、今回閲覧に立ち合っていただいた木村直弘先生と話しながら、自分でも確認しつつ、「信時家に残っていた自筆スコア」(今回はコピーを持参)と「岩手大学のスコア」を見比べていきました。すると、なんと信時家の自筆スコアの不自然さ――自筆譜か筆写譜か判断がつかなかった――その原因がわかりました。

フルスコアの、楽譜中の歌詞(テキスト)の文字の筆跡はミイです。ソロ及び合唱のヴォーカル部分は、楽譜もミイによるものです。それに対して、声以外の、楽器の部分の楽譜は潔の筆跡だったのです。同じスコアを二人が、縦割り(小節線)ではなく横割り(パートごと)で分担していたのです。

譜を見ていると、潔の自筆譜(それもよそ行きに清書した風の筆跡)なのに、歌詞に目が行くと、ミイの字に見えるような気がしてくる。これは自筆譜と言っていいのか・・・という長年の疑問が、こうして解けました。

筆跡の謎が解けたあとに、疑問点として残っていること。それは、なぜ、この手書きスコアが「岩手」で見つかったのかという点です。 
(つづく)

(其の1)から読む

6月29日、岩手大学附属図書館にお邪魔しました。お約束していた木村直弘先生のほか、岩手大学学芸学部音楽科卒、県内の中学校校長などを務められ、岩手の音楽に詳しい佐々木正太郎先生もおいでくださいました。「海道東征」の手書き譜は、佐々木先生が、岩手師範学校で一年後輩の菅公(かん・いさお)先生から受け取って、岩手大学に収められることになったそうです。

佐々木先生が、千葉昌男先生から聞いた話によれば、昭和18年岩手師範学校の「海道東征」は本科二、三年生だけが歌い、当時一年生だった千葉先生は「露営の夢」(北村季晴作曲 松田鐵雄編曲)の合唱に出場したそうです。ここに書いた『卒業50周年記念誌<黙示>』が完成した頃、岩手師範で「海道東征」を歌った故・佐藤晋先生から「海道東征」を再演したいという話も出ていたが、楽譜が入手できず実現できなかったそうです。
P1020159web.JPG
さて、いよいよ貴重資料室で保管されている岩手大学所蔵「海道東征」手書きスコアと対面しました。


  「海道東征」手書きスコアが保管されている岩手大学図書館→


表紙は、かなり傷んでいました。一枚二つ折りの五線紙41枚を重ねた(綴じなし)外側に青い紙が表紙のようにかぶせられています。その紙にはタイトルの記入なし。両端を折り返しているのが、信時家資料では見ない形なので、おそらく信時家を出てから、委嘱団体、あるいは演奏団体などで付けられたもののように思えました。五線紙は、ネームが一切入っていない20段の用紙。これは、信時家に残る「海道東征」自筆スコアも同じです。

タイトルページで目に付くのは、朱色の角印「財団法人日本文化中央聯盟之印」です。もちろん、信時家の自筆スコアには、この印はありません。筆跡となると、私的な勘に頼るような面がありますが、この印はそうそうある「印」ではないので、このスコアの由来を知る一番の決め手と言って良いでしょう。

楽譜は主にペン(インクはブルーブラックか?)書きで、赤鉛筆で、章のタイトル、歌詞の訂正や、演奏上の注意などが書き込まれています。ところどころに記入されたソリストの名は鉛筆書き。

さて、タイトルですが、海道東征とペンで書かれ、その横に(遷)の文字が赤で書き添えられています。これは一体どういったわけでしょうか?
kaidotosei-sen.JPG
  文字を書き起こしてみると、  こんな感じです  →    →  → 


一方、楽譜第1ページに書かれた第一章のタイトルは、最初「肇國」とあったものを赤線で訂正し、横に赤で「高千穂」とあります。出版時のタイトルは「高千穂」です。そのほかにも歌詞の訂正がかなり目につきました。しかも。信時家の自筆スコアもほぼ同様の直しがあります。白秋の詩を受け取って、一旦作曲が仕上がって、浄書(ミイによる筆写)されて、白秋に届けた後に、見直し、訂正が入ったのかもしれません。信時家に残る歌詞原稿、また白秋関係資料と比較検討すれば、訂正・修正の過程がわかるのでしょう。

・・・・・と言う具合に、あちこちで立ち止まりながら、楽譜を見ているとすぐに時間は過ぎていきます。
とても、全部は書ききれないので、詳細は割愛します。

それで、一番気になるのは、この楽譜を誰が書いたか、ということでしょう。それは・・・全体を通して、やはり信時潔の妻ミイでした。一般の作品はもちろん、1000曲以上の校歌・団体歌まで、ほとんどの作品がそうですから、不思議ではありません。ただし、演奏用の書き込みのほかに、おそらく作曲者のものと思われる書き込みも数箇所確認できました。

それが実感できて来た頃、信時家の「自筆」スコアで、私がなにか変だと感じていたのは これだったのだ、と突然ひらめきました。
(つづく)

6月28日(日)、盛岡に到着。岩手大学図書館での閲覧は月曜日にお願いしましたが、せっかく遠くまで行くので前日に盛岡に入り、町を一巡り。「海道東征」関係でも、見ておきたい場所がありました。岩手で海道東征が上演された「岩手県公会堂」です。
 
この岩手における上演の記録、当日の次第(プログラム)の類は、岩手大学内には残っていないそうで、私は、渡部精治先生から、卒業生のクラスが出した本に掲載された記事をいただきました。あとで書名を確認したところ、以下の本からの複製だそうです。
 
『卒業50周年記念誌<黙示>』(岩手師範昭和19年卒同期会、卒業50周年記念誌編集委員会 編・発行 1994.9)
 
関係部分を抜書しておきます。(旧字、漢数字は置き換えています)
 
岩手師範学校開校記念音楽演奏会曲目
      期日 昭和18年7月17日(土)午後7時開会
      会場 岩手県公会堂

演奏
第一部
  一 混声合唱   男・女 本科生
   (イ)君が代
   (ロ)海行かば

  (中略)

[第二部]
   九 混声合唱  男・女 本科生
    (イ)みたみわれ (大政翼賛会制定)
    (ロ)海道東征   (信時潔)
          第一楽(ママ)章  高千穂
             テノール独唱   男本三ノ一 藤沢章一郎
             バリトン独唱    同      遠藤勇蔵 
    
  (後略)
                             主催 岩手師範学校
 
  このプログラム掲載ページには、当日の混声合唱のステージ写真も載っています
  なお、この日の第三部では、東京音楽学校の千葉靜子がアルト独唱で平井保喜(のち康三郎)作曲「平城山」のほか、「君よ知るや南の国」「ハバネラ」を披露、星野すみれがピアノ独奏でショパン「即興幻想曲」、リスト「嵐」などを披露しています。
 
 -----というわけで、その盛岡初演の舞台となった「県立公会堂」に、行ってみました。 夕方 6時頃でしたので、受付は閉まっていました。
 
P1020142WEB.JPGこちらが正面玄関側。

設計者は、東京の日比谷公会堂や、早稲田大学の大隈講堂の設計で知られる佐藤功一博士。 なんと、岩手県公会堂は日比谷公会堂(「海道東征」全曲初演が行われたホール)より2年早く完成したそうです。

たしかに日比谷公会堂に似ていました。

P1020138web.JPG こちらがホール入り口。

本当はホール内も見てみたかったのですが、叶いませんでした。もっとも、ホール客席やステージは、戦時中とは変わっていることでしょう。

そして、この翌日、岩手大学で「海道東征」手書き譜と対面します。

(つづく)
5月11日、岩手大学図書館から返事が届きました。
 
「海道東征」の楽譜は確かに図書館内に展示している。ただし、資料の所属は同大学「教育学部音楽科」で、そちらの教員に入手経路の詳細を問い合わせ中、とのこと。 そこで、教育学部音楽科のご担当・木村直弘教授(音楽学)の連絡先を教えていただき、直接メールでのやりとりが始まりました。
 
木村先生は、私を一応研究者のはしくれと認めてくださったようで、資料の状況などについても、かなり詳しい(今、メールの履歴をざっと見ても10往復以上)やりとりが続きました。教授という大変お忙しい立場にありながら、本当に丁寧に返信を下さり、恐縮してしまいました。
 
メールのやりとりでわかった盛岡の「海道東征」楽譜の詳細と、それが同地にある理由は次のようなものでした。
 
1.現在岩手大学にある「海道東征」手書きの楽譜は、表紙に「財団法人日本文化中央聯盟」の印がある。おそらく作曲完成時に、同曲作曲を信時に委嘱した団体「財団法人日本文化中央聯盟」に収められ、初演にも使われた楽譜だと思われる。同様の団体印が押されたパート譜は、東京芸術大学附属図書館に保管されている。
 
2.楽譜の一部の写真を送っていただいて見た限りでは、自筆ではない。多くの筆写譜と同じく、信時潔の妻・信時ミイによる筆写譜。第一章を「肇國」から「高千穂」に直した形跡がある点などは、信時家に保管されていた自筆譜と同じで、かなり初期の楽譜(初版譜以前の)らしい。
 
3.何故、盛岡にあったのか。岩手大学の前身、岩手師範学校での上演(昭和18年7月17日。部分上演。ピアノ伴奏)とは関係ないらしい。岩手大学に収められたのは、比較的最近のことで、元は一関に住んでいた方が持っていた。由来はよくわからないが大切なものらしいと、その知人から、知人へと受け渡され、最後に岩手大学に持ち込まれ、しばらく教育学部で保管されていたが、せっかくだから公開をということで、図書館ロビーに展示されることになった。
 
4.一関に住んでいた方が何故持っていたか、については、当時を知る方が亡くなられていて、もはやわからないが、誰の、というよりも疎開してきた荷物一式の中に入っていたらしい、と伝えられている。
  
メールと、周辺資料の確認で、以上のようなことがわかりました。

実は、信時家に残っている「海道東征」自筆スコアは、ほかの自筆譜と少し違うので気にかかっていました。 大抵の「自筆譜」は眺めていても、気にならないのですが、「海道東征」に限って、ところどころ、「あれ?ここはミイの筆跡では?」と思う箇所があったのです。妻ミイ(大正4年東京音楽学校甲種師範科卒)による筆写譜は、それだけ見ていれば「筆写譜」とわかるのですが、両方混ざってくると、混乱してきます。

一般に、楽譜にしても、文章にしても、筆写していると、どうも字が似てくるようです。夫婦だからでしょうか?(夫婦は容貌も似てくると、よく言います) 以前「木下記念スタジオ」にお邪魔した際、木下保先生の楽譜と、奥様の木下照子先生(昭和10年東京音楽学校本科声楽部卒)が写した楽譜の筆跡が似ていて、どちらかとてもわかりづらい、という話を伺って、いずこも同じ、と思ったものでした。
 
そんなわけで、比較対照する楽譜が出てきたということは、見直しのチャンス。岩手で見つかった手書きスコアの「閲覧」に出かけることにしたのです。
  
日程調整の結果、6月最後の日曜日、盛岡に向かいました。
 
 (つづく) 

久しぶりの記事追加となりました。
このところ追っていたBIGな話題を、少しづつ書いていこうと思います。

1年以上前のこと、「岩手大学の図書館に<海道東征>の自筆譜が飾ってあるが知っているか?」と聞かれたことがあります。その時は、雑事にまぎれてそのままになっていました。

が、1年後に再び、別の方から同様の問い合わせがあり、これは詳しく調べておいたほうが良いだろうと思い立ち、連絡をとりはじめました。

本家サイト「信時潔研究ガイド」のhttp://home.netyou.jp//ff/nobu/page039.html にも記事が載っている、盛岡の渡部精治先生より、岩手でも「海道東征」上演があったという情報、資料を頂いていました。昭和18年7月に、ピアノ伴奏で、第一章「高千穂」が歌われています。 (詳細は後日掲載) 盛岡と「海道東征」の接点とは・・・私が知っていたのはこれだけでした。
ピアノ伴奏であれば、すでに昭和15年8月に、共益商社書店から、ピアノヴォーカルスコアが出版されているので、「自筆」の管絃楽スコアが盛岡にある理由と結びつきそうにありません。

そこで、とにかく盛岡の「岩手大学」の図書館に、「海道東征」の”自筆譜”が展示してあるというのは本当か、何故岩手大学にそれが保管されているのか、問い合わせてみることにしました。質問を、同大学図書館あてに出したのは、今年の5月7日のことでした。

 (つづく)

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企画・構成・復刻:郡 修彦
構成・解説:信時裕子
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