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の・ぶ・ろぐ   ・・・・・・・・・・  作曲家・信時潔の人と作品に関する最新ニュースや、日々思いついたことなどを書いています。
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野村胡堂記念館訪問記の続きです。

訪問した当日は、SPレコードコンサートが開かれる日でした。
資料の閲覧を終えて、展示室方面に戻ると、お客様が集まり始めていました。

思いのほか「大きな駐車場」(第二駐車場まである)の理由は、このレコードコンサートお客様、それも常連さんがかなり集まるため、だったようです。

 地域の偉人を顕彰した記念館で展示するだけでは、そうそう繰り返し訪ねる人はいないでしょう。 それだけではなく、独特の味わいのある蓄音機、SPレコードを聴きに集まる方がいらっしゃるのでした。
今日のプログラムは「メニューイン」。バッハやモーツァルトの協奏曲を中心に約2時間。解説・講演する侘美淳教育長は、岩手大学卒業後音楽の教師、中学校長などを歴任し、紫波町の教育長となられた方だそうです。

入場料はコーヒー代の200円。大体毎月1回行われているようで、7月は第217回でした。

私は残念ながら、この日は時間がなくて、午後2時からのレコードコンサートは聴くことができないと諦めていたところ、館長自らが特別に レコードをかけて聴かせてくださいました。

 

SP音源復刻・・・といった仕事をしましたが、実はホンモノの蓄音機で聴く機会はあまりありませんでした。

独特の響き。正面で聴くと意外と音が大きいのに驚きました。パチパチ音はするものの、それを超えるアナログの魅力、蓄音機の魅力を語る人の気持ちがわかりました。

「針を通せば必ず盤は傷むのだけれど、レコードを持っていたって聴かなければしょうがない」と館長・野村さんが仰ったのが印象的でした。

受付横の販売コーナーには、『野村胡堂・あらえびす来簡集 : 明治・大正・昭和を彩る交友録』『野村胡堂・あらえびす関係記事目録と件名索引』など、記念館が発行した図書、目録、記念館の協力で完成した野村胡堂・あらえびす関係書籍などが並び、本当に「良い仕事している」ことが見えました。

音楽好きな方なら、是非一度、訪ねてみることをお勧めします。
バスは一日に2本ですが、「日詰駅」で降りれば、 駅前にタクシー会社あります。
日詰駅からは、車で10分程度です。

野村胡堂・あらえびす記念館
http://kodo-araebisu.jp/




野村胡堂(あらえびす)像を囲んで。
左から、大角欣矢教授、筆者、侘美淳教育長、野村晴一館長、岩手大学・木村直弘教授

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7月20,21日に、盛岡を再訪しました。



以前訪ねたことはこのブログの、「海道東征の手書きスコアが盛岡に?」http://noblogblog.blog.shinobi.jp/Entry/41/ に書きました。



今回は、芸大で進められている「信時潔文庫」の本格的整理に伴い、関係の深い資料の調査ということで、再び岩手大学に「海道東征」を見に行きました。

岩手大学で保管されている「海道東征」の調査結果は、

科学研究費助成事業 http://noblogblog.blog.shinobi.jp/Entry/127/ として、

まとめていく予定です。



加えて、今回訪ねたのが、盛岡から電車とバス(タクシー)を乗り継いで車で1時間弱の岩手県紫波町にある「野村胡堂あらえびす記念館」。



少し前に、畑中良輔先生の最後の本『荻窪ラプソディー : ブル先生の日々是好日』(音楽之友社)を読んでいて、同館に野村胡堂宛ての書簡が整理・保管されていることがわかったので、信時関係のものが何かあるかと、問い合わせてみました。



さっそくお返事をいただき、野村胡堂宛ではないが、田部井石南宛の書簡が残っている、とのこと。なぜそこにその書簡があるのか、状況はよくわからないのですが、とにかく閲覧に行くことにしました。



岩手県紫波町、田畑や果樹園が連なる地区の山の上に、素敵なデザインの建物と大きな駐車場がありました。(何故そんなに大きいのか、あとで判りました)



展示室を一回りした後に、書簡3通を見せていただいたところ、2通は『信時潔音楽随想集 バッハに非ず』(アルテスパブリッシング)巻末の執筆一覧に掲載した田部井石南(画家)の個展に寄せた文章の元原稿であることがわかりました。

残る1通は、同様のものですが掲載記事は未確認のため、調査中です。



何故、この書簡が野村胡堂記念館にあるのか、それが疑問だったのですが。
同館の野村晴一館長(野村胡堂の弟の孫に当たられるそうです)に伺い納得できました。



田部井石南と野村胡堂は、軽井沢の別荘が近く、軽井沢での交友を始めとして生涯親しく行き来していた。田部井氏が、奥様を事故で亡くされた時には、失意の同氏を慰めるために蓄音機とレコードを贈って慰めた。胡堂は田部井石南の絵の才能を認め、絵の道に進むように勧め、支援した・・・ということです。



信時潔とは、話が合ったのか、信時家との交流も深く、家にもよくいらしていたようで、私も家族から「田部井さん」という名前を頻繁に聞いていますし、写真もいくつか残っています。



野村館長のお話を伺うまで胡堂と軽井沢につながりに気づかなかったのですが、もう30年近く前になりますが、軽井沢の田部井氏の別荘にインタビューに伺った折に、野村胡堂の名前が挙がっていたことを思い出しました。



田部井氏のレコードや書簡などの資料が同館に移管されたそうで、書簡の整理はこれから本格的に始まるそうです。





田部井石南
(明治31~平成6) 日本画家

大山郁夫に師事、労農党で政治活動を行う。人民戦線事件で拘束。その後、河合玉堂の塾に入って絵の道に進んだ。軽井沢で胡堂に会い、個展や作品の頒布に、胡堂が協力した。 



                                   (つづく)




























本家ウェブサイトの特設ページ
「ベルリン 信時潔ゆかりの地をたずねて」を
公開しました。

旅の記録と写真を掲載しています。

http://home.netyou.jp//ff/nobu/page088.html



2013年3月13日から20日、ベルリン調査旅行に行ってきました。

1920年から1922年(大正9年から11年)にかけて、信時潔が留学したベルリン。
そのゆかりの地を訪ねての旅です。
下に表示されている地図の青い吹き出しがある地点が、
今回訪ねたゆかりの場所(+私が観た場所も少々)です。


より大きな地図 
Berlin-Nobutoki_Footprint を表示すると、
吹き出し地点の詳細情報を見ることができます。
(吹き出しの色が違うのは特に理由はありません。直し方がわからないので・・・)

各地点の記載順は、私が巡り歩いた順。
近日、その旅日記(?)をアップする予定です。





より大きな地図で Berlin-Nobutoki_Footprint を表示


大阪の三木楽器に行ってきました。

あのえんじ色の表紙でおなじみの『全訳・コールユーブンゲン』の版元です。

なんと創業は文政8年。
大正13年に(!)創業100年を記念して新築された社屋は今も健在です。
三木楽器のホームページにも「沿革」が詳しく掲載されています。
http://www.miki.co.jp/company/history/index.html


 今回は、信時潔が三木楽器に送った書簡が残っているとのことで、
それを見せていただき、あわせて信時の編著書、出版譜も見せていただきました。

信時潔が翻訳した『全訳・コールユーブンゲン』の初版は、同社には残っていないとのこと。
現在売られているものは確か78版だったと思いますが、どうもその「版」は戦後からカウントされたものらしく、戦前の分は入っていないらしいこともわかりました。


このオレンジ色に近い表紙は、かなり古いものと思われますが、奥付がありませんでした。

「刷」と「版」の用語の使い方が一定していないということもあるのですが。
いったい今まで全部で何冊印刷されたのでしょうか。

調査結果のまとめにはもう少し時間が必要ですが、とりあえずの第一報でした。

なお、三木楽器には歴史保存室という部署があり、創業190年を記念する『社史』を準備中だそうです。

大正時代から今日まで、ずっと続いている楽器店、音楽出版社は、数少ないです。
創業以来の、楽譜、音楽書、教科書等、出版物のリストの掲載を期待しています。


高知には、もうひとつ気になっている事がありました。戦後早い時期の「海道東征」再演です。演奏のデータは交声曲「海道東征」 上演記録 のページに載せています。

昭和28年、第六回フラワーソングクラブ定期演奏会で、ピアノ伴奏版の上演。翌年の第七回定期演奏会では、高知交響楽団による管弦楽伴奏で上演されました。

私が高知での海道東征上演を調べたのは、昭和62年(1987)のことです。ちょうど阪田寛夫先生が、小説「海道東征」を書かれたあとで、東京での朝日放送の「再演」については、情報が揃ったので、次に岡山、高知、九州での戦後上演の詳細を確認しようと思ったからです。 断片的な情報から、当日の指揮者で、フラワーソングクラブ主宰者の橋本憲佳(海道東征上演当時のお名前は橋本正夫。東京音楽学校在学当時のお名前は後藤正夫)先生に連絡がつき、プログラムや、当時信時とやりとりした葉書のコピーなどを送っていただきました。お手元には当時の録音テープもあるとのことでした。
FlowerSongC1.JPG
 
(橋本憲佳先生に頂いた「海道東征」上演プログラムの複写)


橋本先生とは何度か郵便や電話でのやりとりがあり、いつかお目にかかれればと思っていたのですが、四国訪問の時が来た今回、その橋本先生が2003年に亡くなられたことをインターネット情報で知りました。

昭和28,29年の再演は高知新聞社の後援だったので、『高知新聞』に案内記事、批評記事などがあるかと思っていたのですが、見つけることは出来ませんでした。終戦後8年のこの当時は、まだ新聞のページ数が少なく、記事にはならなかったのかもしれません。

もうこれ以上の情報は出ないかと諦めていたのですが、『高知新聞』の天野記者のご紹介で、﨑山ひろみ様にお目にかかることができました。﨑山様は、開拓・移民の研究者で、高知教会の年史をお持ちで、その当時のことにも詳しい、というところから話が始まったのですが、御自身も高知教会の信徒であるばかりでなく、歌がお好きで合唱団に属したことがある、それがフラワーソングクラブで・・・と話が広がり、海道東征の上演時に舞台で歌っていたことがわかりました。そして、そこはさすが資料研究者だけあって、なんと「海道東征」上演当時のパート譜をお持ちだったのです。

橋本憲佳先生から上演当時パート譜の入手に苦労したことは伺っていました。芸大からはなかなか借りられず、放送局から借りてはどうか、などという話もあったようです。橋本先生からいただいた資料から、下總皖一、木下保らに相談していた様子が伺えます。そして、スコアはどうやら作曲者の手元にあったものを提供したというところまでは判明したのですが、結局パート譜はどこから借りたのか?高知交響楽団に確認してみましょうと仰って頂いたのですが、ついに連絡はなかったので、パート譜はどこから手配したものなのか、はっきりわかりませんでした。

今回﨑山様に見せていただいた楽譜は、最初の数枚の五線紙にNHKの名が入った合唱パート譜(ピアノ伴奏なし)。手書き楽譜の謄写版印刷。それはつまり、東京音楽学校の合唱団が使っていた共益商社版のピアノ・ヴォーカルスコアとは違うものでした。
FlowerSongC2.JPG
 
(﨑山さん所蔵。「海道東征」合唱パート譜)

表紙のデザインは共益商社の管弦楽版に似せてあります。白ヌキ部分の枠上部、勾玉風のデザインは同じですが、当然のことながら、その上部の日本文化中央連盟主催、 皇紀二千六百年奉祝芸能祭制定、の文字はありません。
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交声曲「海道東征」 共益商社書店 1943.10 管絃楽総譜


以上のような三日間の旅を終えて、帰ってまいりました。

実は、ここにはとても書ききれないほど、高知の方の暖かさに触れる、すばらしい旅でした。祖父・潔も60年前に、ただ道を尋ねただけでも、予想外の親切にあって感激しています。今回の私の旅もそうでした。こんなことを調べてますと、突然現れた私に対して、どの方も本当に親身になって、お世話してくださいました。

ほとんど町の中を、徒歩と自転車(ホテルで貸してもらえて助かりました)で廻りましたが、一日だけ、桂浜まで足を伸ばしました。というのは、60年前に祖父が亀に箸で餌をやれると感心していた水族館を見てみたかったからです。残念ながら、亀はおなかがいっぱいで餌をあげることは出来ませんでした。今年の高知は「坂本龍馬」で一層盛り上がっているようでしたが、そのような観光施設を回る間もなく、みなさまのご親切に接し、充実した三日間を過ごし、いろいろな情報を仕入れてまいりました。

お世話になったみなさま、どうもありがとうございました。
 (この項おわり)





信時潔の実父・吉岡弘毅は高知教会の第二代牧師でした。最終日の朝、教会にお電話で事情をお話したところ、どうぞいらっしゃいとのことで、早速教会に向かいました。実は、現在の牧師様は比較的最近着任なさったと伺っていたので、昔のことはご存知ないだろうと今回直接訪問を躊躇していたのです。ところが副牧師として長らくこの教会にいらしたとのことで、過去のことについても大変詳しく、説明、案内をしてくださいました。

吉岡弘毅が、大阪北教会から、この高知へ移ってきたのは明治21年。『高知教会百年史』によれば、明治21年は、教会の日誌が偶然残っているので、明治21年1月1日に、現在の教会堂の位置に新しい会堂ができたこと、同年6月26日に吉岡牧師が着任したこともわかりました。
前日に、高知市民図書館で『 高知教会百年史』を閲覧していましたが、閲覧席でざっと目を通しただけでは、情報を拾いきれず、不安に思っていたところ、教会にまだ在庫があるそうで、一冊頒けていただきました。(頒価2,000円)
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吉岡弘毅牧師時代の長老には「片岡健吉」「坂本直寛」の名もあり、信徒の数は明治21年512名、明治25年578名。教会堂は現在の建物が三代目で、建物の向きは変わりましたが同じ敷地内だったそうです。
写真は、今現在の教会ですが、中央やや左寄りに見える蘇鉄(そてつ)や、その周りに配された石は最初の会堂が出来た時=明治21年当時からここにあるのではないか、とのことでした。

教会の場所は高知市本町、自宅は鏡川に面した西唐人町のこのあたり。直線距離で800m程。吉岡一家の子供たちも、両親と一緒に教会に通ったのでしょうか。教会にはオルガン、そして西洋音楽もあったでしょう。         

(つづく) 

吉岡愛著『父を語る』には、「土佐生活中に於て忘れんとしてわすれることのできぬ今一つの記憶は、大洪水の経験である」とあります。三つ違いの潔も、「前の川が氾濫すると畳を積み上げて二階に移り」「川上から色々な物が流れて来るのを眺めました」と書いています。

高知県立図書館の『高知県災害異誌』(1966序)によれば、明治23年9月11日の台風で、大きな被害が出たようです。新聞を丹念に調べたわけではありませんが、9月26日の『土陽新聞』には、「本月十一日ノ洪水ハ実ニ未曾有ノ変災ニシテ」と義捐を求める記事がありました。

現在の地図を見ても「唐人町」というのは川沿い一列だけの「町」です。一階の座敷が一面浸水して、二階で過ごしたという家は、この川沿いのどこかにあったのでしょう。
 

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「対岸の天神様」というのは、潮江天満宮でした。
 

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その天神様の手前にある大楠は地元の方は誰でも知っているようです。
その大楠の枝振りを見て、潔少年が、 3歳上の兄・愛(メグム)、8歳上の兄・徹と、この木によじ登ったり、川に向かって飛び込んだりしていた姿が浮かんできました。

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良く遊びにいったという旧城址、高知城。兄・愛も腕白仲間と探検に行った、などと書いています。

     

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そして、いよいよ最後の日に、潔の父・吉岡弘毅が、その二代牧師となった「高知教会」を訪ねました。
 

(つづく)


信時潔は、明治20年代に「高知市西唐人町」に住んだということですが、詳しい番地まではわかっていません。

「幸い元住んでいたあたりに宿が得られ」とあるのが、いったいどの旅館かと、事前に多少調べたのですが、決め手がなく、六十年も経っては仕方ないと諦めかけていたところ、鏡川沿いにある木造二階建ての旅館が目に留まり、ピンと閃きました。それは、割烹旅館「臨水」さんです。突然のことでしたが、事情をお話したところ、女将とそのお母様が快くお話をしてくださいました。
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現在の「臨水」は戦後山内家宝蔵跡に、同じ鏡川沿いの「潮江橋」の北詰に建てられた「本館」に対して「新館」として建ったもの。信時潔が昭和27年に宿泊したのはどうやら昭和初年に開業した「本館」だったようです。
(右写真は、現在の「臨水」です→)

現在の割烹旅館「臨水」のホームページにも、昭和初年に建てられた木造三階建ての旅館の写真が載っています。高知は空襲に遭い、町が焼けてしまったそうですが、この「本館」は地域の方の協力で残ったそうで、昭和27年頃は旅館として営業していたとのこと。

その頃の「宿帳は残っていませんか」と尋ねてみましたが、昭和50年代に二度にわたって鏡川が氾濫し、帳場も水害に遭ったため残っていないそうです。

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「その二階の縁側から、川をへだてて前に横たわる筆山(ひつざん)の姿を眺め」たその景色は、たぶんこのようなものだったのでしょう。赤い橋が「天神橋」です。「近所の豆腐屋の売子たち」が、天神橋の「欄干に腰掛けておやつに貰った油揚げをたべていたのが目に浮びます」とあるのは、「唐人町」についての、このページにある情報と結びつきました。http://www.massage117.com/pc-choumei-nishi-toojin-machi.html 明治時代の西唐人町は、確かに豆腐屋さんの町だったようです。
(つづく)
信時潔ゆかりの地を訪ねるシリーズの続編として、9月の連休を利用して、高知に行ってきました。

「120年後の高知」というタイトルは、信時潔が書いた「60年ぶりの高知」というエッセイにちなんで付けた物です。実はそのエッセイは、神奈川近代文学館の目録を検索していて、偶然見つけたものです。ネットでも公開されている同館の蔵書目録で著者「信時潔」として検索したところ

朝日放送編 『小さな自画像:“わが幼き日"101人集』 東京 朝日新聞社 1954.6.30(昭29)  (朝日文化手帖 29 )

がヒットしたので、閲覧請求してみたところ、信時潔 「六十年ぶりの高知」 が出てきました。

見開き2ページの短いものですが、0歳から5歳ぐらいまでを過ごした、高知についての記憶がさほどあるとは考えていなかったのでちょっとした驚きでした。

「私は明治二十年大阪江戸堀に生れ、一ヵ月たって土佐の高知に移り、六歳の時まで同市の鏡川に沿う唐人町におりました。そして昨年六十年ぶりで幼なじみの高知を訪ねました。」で始まる文章。(実際高知に住んでいたのは何歳から何歳までか、については、もう少し検討が必要だと思います) これを読んで以来、高知は気になる土地でした。

今年、まずは航空券を手配して、自分の決心を固め、現在わかっていること、調べたいことを整理して、高知に向かいました。

高知について、もうひとつ参考になるのは、吉岡愛著『父を語る』です。この本は、信時潔の父、牧師だった吉岡弘毅について、潔の三つ年上の兄、吉岡愛(めぐむ)が書いたものです。その一部に「吉岡愛伝 我が辿り来たりし途(自叙伝)」が掲載され、「我が少年時代 その一 高知時代」には、当時の様子が詳しく書かれています。

以上の資料を主な手がかりとして、信時(当時は吉岡姓)潔が約120年前に幼少期を過ごし、約60年前に再訪した高知を、さらに60年ぶりに訪ねる旅となりました。

三日間の滞在で、本当にいろいろなことがありまして、とても全部は書ききれませんが、ゆかりの地の写真をいくつか紹介いたします。
(つづく)
「ゆかりの地 京都を歩く」に続いて、「巣鴨を歩く」です。
信時潔は留学から帰ってから国分寺に住み着く前、大正末年を、当時の表示で「豊島区巣鴨」というところに住んでいました。この住所を長年本籍地としてきた私の父(潔の三男)は、「としまく すがも ラのドファシラ」と覚えていました。(わかりますね?! ドレミファソラシ=1234567です)
巣鴨平松6丁目という表示になっていることもあり、今は表示が変わっていて、豊島区南大塚一丁目という一帯です。toden
古い地図『明治・大正・昭和東京1万分1地形図集成』http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001654494/jpnなどで、住所を探し、今の地図、およびグーグルストリートビューなどで予習してから出かけました。

最寄り駅、大塚駅から歩き始めました。都電が走ってます。大正時代にも複数の電車、もちろん山手線も通り、結構便利なところでした。上野の山にも近いです。

P1010911trim.JPG途中にあった巣鴨教会。このあたりに、山田耕筰「からたちの花」の歌碑があると聞いていたので近隣数ブロックを歩いて探してみたのですが、なかなか見つからず。教会の隣の八百屋さんに聞いてみたら、すぐに「そこ!」と教えてくれたのはなんと教会の敷地内。通りから直接見えないのですが、右の教会写真の木の下にありました。

P1010910Karatachi.JPG「からたちの花」発祥の地。ここは耕筰が若き日をすごした「自営館」跡地なのでした。

山田耕筰の自伝『若き日の狂詩曲』 には、当時のこのあたりの様子も書かれています。


Tofukuji巣鴨小学校を廻ってその裏手にあるのが東福寺。正確なところは未確認ですが、「ラのドファシラ」の借家は東福寺の持ち家だった、と父に聞いた覚えがあります。
 豊島区教育委員会が設置した説明板によれば、東福寺は真言宗豊山派に属し、創建ははっきりしないものの1562年に良賢和尚が中興したと伝えられるそうです。小石川大塚から、この地に移ったのは1691年。明治37年の庚申塔があるとのことですが、ほとんど文字が読めない写真石段左側の大き目の碑がそれでしょうか。
疫病の牛の供養塔というのは右側の上にあるもの。明治43年の碑なので、その頃このあたりで乳牛を飼っていたということになります。
 
さて、目的地に近づいてきました。私が確認した古い地図には、番地が飛び飛びに振ってあるので、そのものズバリは出ていないのですが、東福寺のすぐ近くであることは間違いありません。入り組んだ細い道、坂、階段。付近を歩いてみましたが、はっきりした痕跡は見つけられませんでした。たぶん、このあたりだと思うのですが。

この区画、今の住所表示は豊島区南大塚ですが、細い道のすぐ向かいは文京区千石3丁目だったりします。昔の東福寺(豊島区)の敷地が切れると文京区、ということかもしれません。信時潔は関東大震災の時、信時の母と共にこの「巣鴨」の家に住んでいたのですが、実父吉岡弘毅夫妻も、当時すぐ近くの「小石川区丸山町」に住んでいたといいます。千石三丁目のあたりが丸山町だとすると、確かに本当に近かった。

6-1466やはり、80年以上を経た今、当時の家の面影を探すのは無理でした。このあたり震災では焼けてないそうですが、東京の空襲の時はどうだったのでしょうか。とにかく今はとても綺麗なお宅ばかりです。今回の町歩きで一番うれしかったのは「ラのドファラ」ではないものの「ラのドファラ」を見つけたこと。古い住所表示の入った表札が残っているお宅がありました。この近辺をぐるぐると歩いたのですが、巣鴨6丁目の表示が残っていたお宅は2軒だけ。失礼して、お名前を消して住所の部分だけ掲載させていただいてます。この日歩いた記念になりました。ありがとうございます。
先日、京都を訪ねました。そろそろ桜が咲き始めたものの、まだコート無しでは寒い春の日、信時潔ゆかりの地を歩いてみました。

信時潔が京都に住みはじめたのは、1892年(明治25)。4歳の時で、当時の名前は吉岡潔。父・吉岡弘毅は、京都・室町教会の牧師でした。

kyoto-photo
今回バスを降りたのは、京都御所の近くでした。

外苑の大きな木は樹齢何年だろうか、潔の一家もこの木を見ていたのだろうか、などと思いました。

京都御所の南側、通りをはさんだ向いに「装束」「烏帽子」などとかかれた看板の店があって、歴史を感じました。これは間違いなく明治時代からずっとそこにあったお店でしょう。ひょっとして平安時代から・・・かもしれませんが。






kyoto-photo2こちらはgoogleのストリートビューで、予習していった景色と同じでした。

コイン駐車場の後ろに室町教会が見えます。






kyoto-photo3室町通りに面した室町教会。父・吉岡弘毅が着任していた教会です。

地図上では知っていましたが、実際に歩いてみて、明治時代、京都御所にこんなに近いところに、キリスト教会ができたというのは、いったいどういうことなのだろう、と気になりました。

皇居の前とか、靖国神社の前とか、あるいは本願寺の前とかに、教会堂ができる・・・と考えたらどうでしょう。そして、それが明治20年代だったら。教会ができるときはそういうもの、とか、京都というのはそういうところ、と割り切れることなのでしょうか。

 現在の牧師様、その前の牧師様とはお電話などでお話を伺ったことがあります。建物は変わりましたし、若い牧師様が当時のことをご存知のはずもないのですが、それでも、『室町教会史』を送ってくださったり、わかる範囲でお答えいただいたり、親切にしていただきました。突然お訪ねしても申し訳ないので今回はそっと外観の写真だけ撮らせて頂きました。
 ちなみに、写真左側の木の根元には「区民の誇りの木 ヒマラヤスギ」の表示がありました。

P1010781.JPG

吉岡一家が住んでいたところは、「京都市上京区衣棚通下立売上ル常泉院町七番戸」という記録があります。

衣棚通を歩いてみたところ、左の看板を見つけました。

それにしても、昔の住居表示が残っていて助かりました。何丁目何番地何号、などという味気ない住所に変わってしまっていると町を歩いただけでは簡単にはみつからないのです。




P1010785.JPG
この近くには、警察や、府庁などの建物が今でも多いようです。

ちょうどこの日、府庁の中庭で枝垂れ桜の公開が始まったところでした。










P1010792.JPG潔は1894年(明治27)に、京都市立滋野尋常小学校に入学、三年後に大阪に引っ越して転校しています。滋野尋常小学校は、戦後「滋野中学校」となったようです。インターネットで調べたところ「滋野中学校は平成14年4月に上京中学校と京都柳池中学校へ分割統合されました。」とありました。滋野中学校の建物はそのまま残り、「京都まなびの街・生き方探求館」として、上京中学と御池中学の第二教育施設に使われています。その入り口脇の「統合記念碑」には滋野中学校校歌が刻まれていました。ちなみに作曲者は大築邦雄でした。




住んでいた家の形跡などは全くわかりませんでしたが、大規模な戦災を受けていない京都、道の名前、京都御所など、案外変わっていないところも多いのかもしれません。
*-*-*-*-*
CD『SP音源復刻盤 信時潔作品集成
tenkai-web.jpg






企画・構成・復刻:郡 修彦
構成・解説:信時裕子
CD6枚組、別冊解説書
(B5変形判 全144頁)
15,750円(税抜15,000円)
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