高知には、もうひとつ気になっている事がありました。戦後早い時期の「海道東征」再演です。演奏のデータは
交声曲「海道東征」 上演記録 のページに載せています。
昭和28年、第六回フラワーソングクラブ定期演奏会で、ピアノ伴奏版の上演。翌年の第七回定期演奏会では、高知交響楽団による管弦楽伴奏で上演されました。
私が高知での海道東征上演を調べたのは、昭和62年(1987)のことです。ちょうど阪田寛夫先生が、小説「海道東征」を書かれたあとで、東京での朝日放送の「再演」については、情報が揃ったので、次に岡山、高知、九州での戦後上演の詳細を確認しようと思ったからです。 断片的な情報から、当日の指揮者で、フラワーソングクラブ主宰者の橋本憲佳(海道東征上演当時のお名前は橋本正夫。東京音楽学校在学当時のお名前は後藤正夫)先生に連絡がつき、プログラムや、当時信時とやりとりした葉書のコピーなどを送っていただきました。お手元には当時の録音テープもあるとのことでした。
(橋本憲佳先生に頂いた「海道東征」上演プログラムの複写)
橋本先生とは何度か郵便や電話でのやりとりがあり、いつかお目にかかれればと思っていたのですが、四国訪問の時が来た今回、その橋本先生が2003年に亡くなられたことをインターネット情報で知りました。
昭和28,29年の再演は高知新聞社の後援だったので、『高知新聞』に案内記事、批評記事などがあるかと思っていたのですが、見つけることは出来ませんでした。終戦後8年のこの当時は、まだ新聞のページ数が少なく、記事にはならなかったのかもしれません。
もうこれ以上の情報は出ないかと諦めていたのですが、『高知新聞』の天野記者のご紹介で、﨑山ひろみ様にお目にかかることができました。﨑山様は、開拓・移民の研究者で、高知教会の年史をお持ちで、その当時のことにも詳しい、というところから話が始まったのですが、御自身も高知教会の信徒であるばかりでなく、歌がお好きで合唱団に属したことがある、それがフラワーソングクラブで・・・と話が広がり、海道東征の上演時に舞台で歌っていたことがわかりました。そして、そこはさすが資料研究者だけあって、なんと「海道東征」上演当時のパート譜をお持ちだったのです。
橋本憲佳先生から上演当時パート譜の入手に苦労したことは伺っていました。芸大からはなかなか借りられず、放送局から借りてはどうか、などという話もあったようです。橋本先生からいただいた資料から、下總皖一、木下保らに相談していた様子が伺えます。そして、スコアはどうやら作曲者の手元にあったものを提供したというところまでは判明したのですが、結局パート譜はどこから借りたのか?高知交響楽団に確認してみましょうと仰って頂いたのですが、ついに連絡はなかったので、パート譜はどこから手配したものなのか、はっきりわかりませんでした。
今回﨑山様に見せていただいた楽譜は、最初の数枚の五線紙にNHKの名が入った合唱パート譜(ピアノ伴奏なし)。手書き楽譜の謄写版印刷。それはつまり、東京音楽学校の合唱団が使っていた
共益商社版のピアノ・ヴォーカルスコアとは違うものでした。
(﨑山さん所蔵。「海道東征」合唱パート譜)
表紙のデザインは共益商社の管弦楽版に似せてあります。白ヌキ部分の枠上部、勾玉風のデザインは同じですが、当然のことながら、その上部の日本文化中央連盟主催、 皇紀二千六百年奉祝芸能祭制定、の文字はありません。
交声曲「海道東征」 共益商社書店 1943.10 管絃楽総譜
以上のような三日間の旅を終えて、帰ってまいりました。
実は、ここにはとても書ききれないほど、高知の方の暖かさに触れる、すばらしい旅でした。祖父・潔も60年前に、ただ道を尋ねただけでも、予想外の親切にあって感激しています。今回の私の旅もそうでした。こんなことを調べてますと、突然現れた私に対して、どの方も本当に親身になって、お世話してくださいました。
ほとんど町の中を、徒歩と自転車(ホテルで貸してもらえて助かりました)で廻りましたが、一日だけ、桂浜まで足を伸ばしました。というのは、60年前に祖父が亀に箸で餌をやれると感心していた水族館を見てみたかったからです。残念ながら、亀はおなかがいっぱいで餌をあげることは出来ませんでした。今年の高知は「坂本龍馬」で一層盛り上がっているようでしたが、そのような観光施設を回る間もなく、みなさまのご親切に接し、充実した三日間を過ごし、いろいろな情報を仕入れてまいりました。
お世話になったみなさま、どうもありがとうございました。
(この項おわり)
http://noblogblog.blog.shinobi.jp/Entry/67/120年目の高知 その5
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