信時潔は、明治20年代に「高知市西唐人町」に住んだということですが、詳しい番地まではわかっていません。
「幸い元住んでいたあたりに宿が得られ」とあるのが、いったいどの旅館かと、事前に多少調べたのですが、決め手がなく、六十年も経っては仕方ないと諦めかけていたところ、鏡川沿いにある木造二階建ての旅館が目に留まり、ピンと閃きました。それは、
割烹旅館「臨水」さんです。突然のことでしたが、事情をお話したところ、女将とそのお母様が快くお話をしてくださいました。
現在の「臨水」は戦後山内家宝蔵跡に、
同じ鏡川沿いの「潮江橋」の北詰に建てられた「本館」に対して「新館」として建ったもの。信時潔が昭和27年に宿泊したのはどうやら昭和初年に開業した「本館」だったようです。
(右写真は、現在の「臨水」です→)
現在の割烹旅館「臨水」のホームページにも、昭和初年に建てられた
木造三階建ての旅館の写真が載っています。高知は空襲に遭い、町が焼けてしまったそうですが、この「本館」は地域の方の協力で残ったそうで、昭和27年頃は旅館として営業していたとのこと。
その頃の「宿帳は残っていませんか」と尋ねてみましたが、昭和50年代に二度にわたって鏡川が氾濫し、帳場も水害に遭ったため残っていないそうです。
「その二階の縁側から、川をへだてて前に横たわる筆山(ひつざん)の姿を眺め」たその景色は、たぶんこのようなものだったのでしょう。赤い橋が「天神橋」です。「近所の豆腐屋の売子たち」が、天神橋の「欄干に腰掛けておやつに貰った油揚げをたべていたのが目に浮びます」とあるのは、「唐人町」についての、このページにある情報と結びつきました。
http://www.massage117.com/pc-choumei-nishi-toojin-machi.html 明治時代の西唐人町は、確かに豆腐屋さんの町だったようです。
(つづく)
http://noblogblog.blog.shinobi.jp/Entry/64/120年後の高知 その2
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