信時潔ゆかりの地を訪ねるシリーズの続編として、9月の連休を利用して、高知に行ってきました。
「120年後の高知」というタイトルは、信時潔が書いた「60年ぶりの高知」というエッセイにちなんで付けた物です。実はそのエッセイは、神奈川近代文学館の目録を検索していて、偶然見つけたものです。ネットでも公開されている同館の蔵書目録で著者「信時潔」として検索したところ
朝日放送編 『小さな自画像:“わが幼き日"101人集』 東京 朝日新聞社 1954.6.30(昭29) (朝日文化手帖 29 )
がヒットしたので、閲覧請求してみたところ、信時潔 「六十年ぶりの高知」 が出てきました。
見開き2ページの短いものですが、0歳から5歳ぐらいまでを過ごした、高知についての記憶がさほどあるとは考えていなかったのでちょっとした驚きでした。
「私は明治二十年大阪江戸堀に生れ、一ヵ月たって土佐の高知に移り、六歳の時まで同市の鏡川に沿う唐人町におりました。そして昨年六十年ぶりで幼なじみの高知を訪ねました。」で始まる文章。(実際高知に住んでいたのは何歳から何歳までか、については、もう少し検討が必要だと思います) これを読んで以来、高知は気になる土地でした。
今年、まずは航空券を手配して、自分の決心を固め、現在わかっていること、調べたいことを整理して、高知に向かいました。
高知について、もうひとつ参考になるのは、
吉岡愛著『父を語る』です。この本は、信時潔の父、牧師だった吉岡弘毅について、潔の三つ年上の兄、吉岡愛(めぐむ)が書いたものです。その一部に「吉岡愛伝 我が辿り来たりし途(自叙伝)」が掲載され、「我が少年時代 その一 高知時代」には、当時の様子が詳しく書かれています。
以上の資料を主な手がかりとして、信時(当時は吉岡姓)潔が約120年前に幼少期を過ごし、約60年前に再訪した高知を、さらに60年ぶりに訪ねる旅となりました。
三日間の滞在で、本当にいろいろなことがありまして、とても全部は書ききれませんが、ゆかりの地の写真をいくつか紹介いたします。
(つづく)
http://noblogblog.blog.shinobi.jp/Entry/63/120年後の高知 その1
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