さて、前回のつづきです。(前の記事を探すには、左側のフレームの「ブログ内検索」が便利です!)
畑中先生からいただいたお電話。
突然のお電話に焦りながらも、一生懸命メモをとりました。
以下は、その記録です。
-------メモここから-------φ(.. )--------
2007年9月24日 畑中先生より電話。
東京交声楽団について
第一次
昭和18年が第1回演奏会。卒業したてで、若手として参加。
第一次は、中山、藤井が中心。2~3回やったが、戦争に行ったりして、自然消滅。(解散したわけではなく)
昭和音大小原コレクションの写真は、下総皖一の春の雪、信時の痩人 などをやったコンサートの写真ではないか?
第二次
戦後またやろうという声が上がって、中山悌一は既にソリストだったので「ブルちゃんやってよ」と言われた。合唱だけでなく、シンフォニーやオペラにも出た。日劇で近衛さんが魔笛をやったときに出た。
グルリットのバタフライにも出た。東声(とうせい)と言われていた。
戦後、生活が大変。所詮ソリストの集まりなので、混声合唱団だったかというと・・・・(?)次第にソリストとしての仕事が優先されていった。
第三次
その後第三次として豊野雄次郎(東海大学教授・先頃物故)らが、スクールコンサートなどをやっていた。
木下先生がコロムビア専属だったので、東声のレコードはコロムビアから出ていたのだろう。
--------メモここまで----(-_-φ---
さて、以上のような有益な情報をいただいて、詳細の確認に入りました。
中山悌一、日劇で魔笛・・・などという話から、オペラ史の資料を調べてみたところ『二期会史』<1952-1981>(二期会オペラ振興会 1982)の、おそらく木村重雄さんが書いた文章の中(p.34)に、戦後の「東京交声楽団」を語った部分が見つかりました。
小原コレクションの写真(昭和18.12.22 日本青年館)が下総皖一の春の雪、信時の痩人を嗤ふ歌、などをやったコンサートかどうか、・・・は、日付と会場までわかっているのですが、演奏会プログラムや雑誌記事などは、確認することができませんでした。
豊野雄次郎代表の「第三次」東京交声楽団は、戦後の音楽年鑑にも名前が載っていました。活動の詳細については確認していません。
・・・・・
以上のような経緯があり、この東京交声楽団について、今回の復刻盤ではできるだけ多くの音源を収録し、書き残すべき情報をなるべく集めたいという思いをさらに強くし、なんとか400字ほどの演奏者解説(CD『信時潔作品集成』解説書p.36)にまとめたのでした。
東京交声楽団は「御稜威いただき」や「国民合唱」を歌っただけではない、昭和18年という厳しい時期に、木下保と共に信時合唱傑作集を3集も録音した、信時作品演奏団体でもありました。
そして、そのメンバーは、「二期会」や、戦後の声楽界のリーダーとなっていったのです。
http://noblogblog.blog.shinobi.jp/Entry/34/東京交声楽団 その3
PR