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の・ぶ・ろぐ   ・・・・・・・・・・  作曲家・信時潔の人と作品に関する最新ニュースや、日々思いついたことなどを書いています。
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このブログやウェブサイト「信時潔研究ガイド」には、日本歌曲の歌い方、詩の分析や解釈について調べてたどり着く方も多いようです。

そんな方たちの支持を得ている本が『日本名歌曲百選 詩の分析と解釈』(1)(2)の二冊です。
畑中良輔監修、塚田佳男選曲・構成、黒沢弘光解説 (音楽之友社)

この時期に探している方が増えるのは、もしかすると奏楽堂日本歌曲コンクールのせいでしょうか?歌詞や歌い方を深く意識して「日本歌曲」を歌うことが、浸透してきていることを感じます。

信時作品は同書の第1巻に「我手の花」と、組曲「沙羅」の各曲については各1ページづつ、「茉莉花」については2ページ、第2巻に「小倉百人一首より」について4ページの「詩の分析と解釈」が書かれています。

参考までに、以下に、そのほかの収録楽曲を載せておきます。
日本名歌曲百選 詩の分析と解釈 (1)
●滝廉太郎 荒城の月/花
●小松耕輔 泊り舟
●本居長世 白月
●梁田 貞 城ヶ島の雨
●山田耕筰 鐘が鳴ります/六騎(ろっきゅ)/蟹味噲(がねみそ)/病める薔薇(そうび)/木の洞(うろ)/樹立(こだち)/唄/嘆(なげき)/燕(つばくらめ)/愛と祈り/歌曲集「風に寄せてうたへる春のうた」(Ⅰ 青き臥床(ふしど)を/Ⅱ 君がため/Ⅲ 光に顫(ふる)ひ/Ⅳ たゝへよ、しらべよ)/歌曲集「AIYANの歌」(I NOSKAI/Ⅱ かきつばた/Ⅲ AIYANの歌/Ⅳ 曼珠沙華(ひがんばな)/Ⅴ 氣まぐれ)/歌曲集「雨情民謡曲集」(Ⅰ 捨てた葱/Ⅱ 紅殻とんぼ/Ⅲ 二十三夜/Ⅳ 波浮の港/Ⅴ 粉屋念佛)
●斎藤佳三 ふるさとの
●信時 潔 我手の花/茉莉花(まつりくわ)/歌曲集「沙羅(さら)」(丹澤/あづまやの/北秋の/沙羅(さら)/鴉(からす)/行々子(よしきり)/占ふと/ゆめ)
●弘田龍太郎 小諸なる古城のほとり
●成田為三 浜辺の歌
●大中寅二 椰子の実
●橋本国彦 牡丹/なやましき晩夏(おそなつ)の日に/薊(あざみ)の花/黴(かび)/舞/斑猫(はんみょう)
●平井康三郎 平城山(ならやま)/甲斐(かい)の峡(さわ)/九十九里浜
●石渡日出男 汚れつちまつた悲しみに
●清水 脩 サーカス
●團伊玖磨 歌曲集「五つの断章」(一 野辺/二 舟唄/三 あかき木の実/四 朝明(あさあけ)/五 希望)/歌曲集「わがうた」(一 序のうた/二 孤独とは/三 ひぐらし/四 追悼歌/五 紫陽花(あじさい))/歌曲集「三つの小唄」(一 春の鳥/二 石竹/三 彼岸花)
●中田喜直 桐の花/すずしきうなじ/またある時は/たんぽぽ/甃(いし)のうへ/木兎(みみずく)/歌曲集「海四章」(1 馬車/2 蝉/3 沙上/4 わが耳は)/歌曲集「マチネ・ポエティクによる四つの歌曲」(1 火の鳥/2 さくら横ちょう/3 髪/4 真昼の乙女たち)
●別宮貞雄 歌曲集「淡彩抄」/泡/螢/入墨子(いれぼくろ)/涼雨/別後/燈(ともしび)/天の川/青蜜柑/鷺/春近き日に
●三善 晃 歌曲集「聖三稜玻璃」(1 いのり/2 曼陀羅/3 青空に/4 ほんねん)/歌曲集「抒情小曲集」(ほおずき/少女よ/雨の降る日/小曲/五月)

日本名歌曲百選 詩の分析と解釈〈2〉
●小松耕輔 母/砂丘の上
●山田耕筰 赤とんぼ/かやの木山の/来るか来るか/夜曲/みなぞこの月/待宵草(まつよひぐさ)/みぞれに寄する愛の歌/歌曲集「幽韻五章」(Ⅰ 花の色は/Ⅱ 忘らるゝ/Ⅲ あらざらむ/Ⅳ 玉の緒よ/Ⅴ わが袖は)/歌曲集「澄月集」(Ⅰ 山また山/Ⅱ 月をのする/Ⅲ 行きまよひ/Ⅳ ただ澄める/Ⅴ なかなかに)
●弘田龍太郎 叱られて/昼
●梁田 貞 昼の夢
●清瀬保二 なめいし/嫌な甚太
●信時 潔 歌曲集「小倉百人一首」(月見れば/久方(ひさかた)の/花の色は/淡路島(あわじしま)/長からむ/逢ふことの/人はいさ/時鳥(ほととぎす))
●中田章 早春賦
●平井康三郎 秘唱/歌曲集「日本の笛」(祭もどり/かじめとたんぽぽ/親船小船/浪の音/あの子この子/たまの機嫌と/ぬしは牛飼い/びいでびいで/仏草花/関守/追分/夏の宵月/くるくるからから/落葉松(からまつ)/伊那/山は雪かよ/ちびツグミ/渡り鳥/ここらあたりか/あひびき/野焼のころ)
●清水 脩 歌曲集「抒情小曲集」(春の寺/月草/ふるさと/三月/蛇/小曲/朱の小箱/雪くる前/逢ひて来(こ)し夜は/寂しき春/木の芽/桜と雲雀)
●箕作秋吉 歌曲集「芭蕉紀行集」(一 野ざらしを/二 馬にねて/三 海くれて/四 冬の日や/五 あらたふと/六 閑(しず)かさや/七 荒海や/八 五月雨(さみだれ)の/九 菊の香や/十 旅に病て)
●高田三郎 歌曲集「啄木短歌集」(Ⅰ やはらかに/Ⅱ 頬につたふ/Ⅲ いのちなき/Ⅳ 病のごと/Ⅴ 不来方(こずかた)の/Ⅵ ふるさとを/Ⅶ はづれまで/Ⅷ あめつちに)/歌曲集「前奏曲抄」(わたしの心にある三つのものよ/忘却の時にあって/雨は降る/虻(あぶ)は飛ぶ/わたしは帰って行くであろう)
●大中恩 歌曲集「五つの抒情歌 その1」(ふるみち/思ひ出の山/しぐれに寄する抒情/おもかげ/ふるさとの)/歌曲集「五つの現代詩」(広場/骨/さすらい/はたらいた人達/昨日いらっしって下さい)
●古関裕而 白鳥(しらとり)の歌
●中田喜直 悲しくなったときは/未知の扉
●團伊玖磨 歌曲集「萩原朔太郎に依る四つの歌」(一 雲雀料理/二 草の莖/三 遊泳/四 笛〈参考:天上縊死(いし)〉)
●小林秀雄 瞳/落葉松(からまつ)
●猪本隆 悲歌
  
 〈コラム〉短歌の韻律/「――む」をどう発音するか/「む」と「ん」の発音



 

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信時潔の作品が多数収録されているローム ミュージック ファンデーションのSPレコード復刻CD集の解説DVDが発行されました。
動画サンプルは http://www.rohm.co.jp/rmf/music5/ にあります。

CDは市販されていますが、DVDは市販されないようです。
DVDは全国の公共図書館 http://www.rohm.co.jp/rmf/naiyou/sp_haifu_ichilan.htmlや、音楽大学図書館などに寄贈されるそうです。

この中でとくに注目されるのは、昭和16年の「海道東征」上演の映像が収録されていることです。(冒頭から57分9秒)
ウェブサイト「信時潔研究ガイド」に掲載している海道東征上演記録
http://home.netyou.jp/ff/nobu/page066.html#lcn020 の中の、 1941年3月14日、現代日本音楽演奏会 (情報局)のニュースフィルムです。場所は情報局講堂。これは帝国劇場のことのようです。当時の新聞には「在京外交団、外国通信、留学生等夫妻約一千五百名を招待」とあり、フィルムには客席の様子も映されています。

もうひとつ、このDVDの信時潔に関する「特典」映像は、チェロを弾く信時潔の姿。冒頭から28分過ぎたあたりに映る、ラウトルップ指揮のハイドン作曲「オラトリオ 十字架上のキリストの最後の言葉より」の舞台写真、チェロ最前列の奏者、ラウトルップのすぐ右が信時潔、その右は岡野貞一です。(28分17秒~)

同DVD中「家族が語る音楽家たちの素顔」には、私も出演しました。まず信時潔が文化功労者となった時のインタビュー映像が流れ(1時間16分13秒~)ます。撮影は信時潔文庫を収める東京藝術大学図書館で行われ、同文庫から「海道東征」の総譜を紹介(1時間17分18秒~)。このブログのhttp://noblogblog.blog.shinobi.jp/Entry/45/に書いた「フルスコアの、楽譜中の歌詞(テキスト)の文字の筆跡はミイです。ソロ及び合唱のヴォーカル部分は、楽譜もミイによるものです。それに対して、声以外の、楽器の部分の楽譜は潔の筆跡だったのです。同じスコアを二人が、縦割り(小節線)ではなく横割り(パートごと)で分担していたのです。」 という部分が確認できます。

興味ある方は、是非お近くの公共図書館でDVDをご覧ください。

以下のページにも、このDVDの概要を書いてあります。
http://home.netyou.jp/ff/nobu/page075.html#lcn027
2011年2月、マリインスキー・オペラ日本公演で、リヒャルト・シュトラウス「影のない女」を上演すると聞いて、聴きにいくことにしました。 今回の公演についてはジャパン・アーツのページに詳しい情報があります。

Wikipediaによれば、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E3%81%AE%E7%84%A1%E3%81%84%E5%A5%B3 リヒャルト・シュトラウスの「影のない女」は、1919年にウィーンで初演されたとのこと。実は信時潔は、ドイツ留学中1920年に、このオペラを作曲者の指揮で聴いているのです。ベルリンで楽譜も買い求め、研究しているようです。

『心』という雑誌に寄せた記事で 「R・ストラウスの当時新作のオペラ「影なき女」も作曲者自身の指揮できいた。彼の指揮は手に入つたものである。相当な大作で其頃評判だつたが、今はあまり上演されないようだ。」と書いています。

また、ほかの記事では、同じくR・シュトラウスが歌曲の伴奏を弾くのを聴いて「作曲者の自演には別趣の興味があり作曲学生にとって有益である」と書いています。

「影のない女」が「あまり上演されない」というのは信時が『心』記事執筆当時(1962年)のヨーロッパでのこと。日本では「あまり」どころか、全く聴く事ができなかったわけです。日本初演は、ドイツ初演から65年後のことです。

今回は、ゲルギエフ指揮。知人のジャパン・アーツ スタッフの激賞に動かされ、このオペラを観に、聴きに行ってきます。90年前の上演に思いを馳せながら・・・・・







小泉文夫について書かれた本、岡田真紀著『世界を聴いた男 小泉文夫と民族音楽』(平凡社 1995)の中に、意外にも「信時潔」という文字を見つけた。第一章の、小泉文夫が高校生だった頃の話として、「器楽合奏以外に男[声]合唱も楽しんだ。小泉の趣味は少し他の人と違っていて、西洋の古典音楽よりもむしろ山田耕筰や現代音楽といえる信時潔や高田三郎の抒情的な歌曲を好んで歌っていたという」の一節。

これをきっかけに思い出したので、書き留めておこうと思う。小泉文夫は、かつて東京混声合唱団の「合唱の歴史連続演奏会」(1959)のプログラムに掲載された「日本の合唱 古代から明治大正時代まで」の中で、「洋楽の直輸入の次に当然来るべき課題は、伝統との結合という問題」 「だが今日までつづいているこの問題の解答は、簡単に得られないでいる。山田耕筰のあとの最も注目すべき作曲家は信時潔であるが、氏の場合は、極端な抒情性の追及に走らず、ドイツ風の格調正しい和声体系の上で、簡潔な日本的表現に向かっているようである。交声曲「海道東征」は、合唱音楽におけるその最高の成果といえよう。」と書いている。

小泉文夫は「海道東征」を聴いたのだろうか。「海道東征」が初演された1940年は、小泉文夫が13歳で、府立四中(現都立戸山高校)に入学した年である。同校で、安部幸明の指導を受けている。1944年に旧制第一高等学校(現東京大学教養学部)理科乙類入学、音楽班に入り、ヴァイオリンや合唱の指導をうけた。合唱を指導した高田三郎は信時潔門下でもある。そのような学生なら、おそらく1940年~44年の間に「海道東征」を聴いていただろう。自らの経験もなく、なにかほかの資料を元に「最高の成果」と評したとは考えられない。まだ「戦後」の影響が大きく、朝日放送の「海道東征」再演(1961年)以前の、1959年という時期において、このような評価をしているところが興味深い。

同じ民族音楽学者の小島美子による「民族的な音楽への先駆者たち」(『音楽の世界』連載)などは、信時の音楽は、民族音楽的に「良くない」音楽であるかのように、コテンパンにやっつけている感があり、この小泉の一文を見つけたとき、少しホッとしたというのが正直な気持ちだった。

小泉の言う「簡潔な日本的表現」とはなにか。それがどこにあるのか。次の世代の研究者が、別の言葉で表現してくれればと願っている。

          参考:  小泉文夫記念資料室「小泉文夫年譜」

高知には、もうひとつ気になっている事がありました。戦後早い時期の「海道東征」再演です。演奏のデータは交声曲「海道東征」 上演記録 のページに載せています。

昭和28年、第六回フラワーソングクラブ定期演奏会で、ピアノ伴奏版の上演。翌年の第七回定期演奏会では、高知交響楽団による管弦楽伴奏で上演されました。

私が高知での海道東征上演を調べたのは、昭和62年(1987)のことです。ちょうど阪田寛夫先生が、小説「海道東征」を書かれたあとで、東京での朝日放送の「再演」については、情報が揃ったので、次に岡山、高知、九州での戦後上演の詳細を確認しようと思ったからです。 断片的な情報から、当日の指揮者で、フラワーソングクラブ主宰者の橋本憲佳(海道東征上演当時のお名前は橋本正夫。東京音楽学校在学当時のお名前は後藤正夫)先生に連絡がつき、プログラムや、当時信時とやりとりした葉書のコピーなどを送っていただきました。お手元には当時の録音テープもあるとのことでした。
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(橋本憲佳先生に頂いた「海道東征」上演プログラムの複写)


橋本先生とは何度か郵便や電話でのやりとりがあり、いつかお目にかかれればと思っていたのですが、四国訪問の時が来た今回、その橋本先生が2003年に亡くなられたことをインターネット情報で知りました。

昭和28,29年の再演は高知新聞社の後援だったので、『高知新聞』に案内記事、批評記事などがあるかと思っていたのですが、見つけることは出来ませんでした。終戦後8年のこの当時は、まだ新聞のページ数が少なく、記事にはならなかったのかもしれません。

もうこれ以上の情報は出ないかと諦めていたのですが、『高知新聞』の天野記者のご紹介で、﨑山ひろみ様にお目にかかることができました。﨑山様は、開拓・移民の研究者で、高知教会の年史をお持ちで、その当時のことにも詳しい、というところから話が始まったのですが、御自身も高知教会の信徒であるばかりでなく、歌がお好きで合唱団に属したことがある、それがフラワーソングクラブで・・・と話が広がり、海道東征の上演時に舞台で歌っていたことがわかりました。そして、そこはさすが資料研究者だけあって、なんと「海道東征」上演当時のパート譜をお持ちだったのです。

橋本憲佳先生から上演当時パート譜の入手に苦労したことは伺っていました。芸大からはなかなか借りられず、放送局から借りてはどうか、などという話もあったようです。橋本先生からいただいた資料から、下總皖一、木下保らに相談していた様子が伺えます。そして、スコアはどうやら作曲者の手元にあったものを提供したというところまでは判明したのですが、結局パート譜はどこから借りたのか?高知交響楽団に確認してみましょうと仰って頂いたのですが、ついに連絡はなかったので、パート譜はどこから手配したものなのか、はっきりわかりませんでした。

今回﨑山様に見せていただいた楽譜は、最初の数枚の五線紙にNHKの名が入った合唱パート譜(ピアノ伴奏なし)。手書き楽譜の謄写版印刷。それはつまり、東京音楽学校の合唱団が使っていた共益商社版のピアノ・ヴォーカルスコアとは違うものでした。
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(﨑山さん所蔵。「海道東征」合唱パート譜)

表紙のデザインは共益商社の管弦楽版に似せてあります。白ヌキ部分の枠上部、勾玉風のデザインは同じですが、当然のことながら、その上部の日本文化中央連盟主催、 皇紀二千六百年奉祝芸能祭制定、の文字はありません。
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交声曲「海道東征」 共益商社書店 1943.10 管絃楽総譜


以上のような三日間の旅を終えて、帰ってまいりました。

実は、ここにはとても書ききれないほど、高知の方の暖かさに触れる、すばらしい旅でした。祖父・潔も60年前に、ただ道を尋ねただけでも、予想外の親切にあって感激しています。今回の私の旅もそうでした。こんなことを調べてますと、突然現れた私に対して、どの方も本当に親身になって、お世話してくださいました。

ほとんど町の中を、徒歩と自転車(ホテルで貸してもらえて助かりました)で廻りましたが、一日だけ、桂浜まで足を伸ばしました。というのは、60年前に祖父が亀に箸で餌をやれると感心していた水族館を見てみたかったからです。残念ながら、亀はおなかがいっぱいで餌をあげることは出来ませんでした。今年の高知は「坂本龍馬」で一層盛り上がっているようでしたが、そのような観光施設を回る間もなく、みなさまのご親切に接し、充実した三日間を過ごし、いろいろな情報を仕入れてまいりました。

お世話になったみなさま、どうもありがとうございました。
 (この項おわり)





信時潔の実父・吉岡弘毅は高知教会の第二代牧師でした。最終日の朝、教会にお電話で事情をお話したところ、どうぞいらっしゃいとのことで、早速教会に向かいました。実は、現在の牧師様は比較的最近着任なさったと伺っていたので、昔のことはご存知ないだろうと今回直接訪問を躊躇していたのです。ところが副牧師として長らくこの教会にいらしたとのことで、過去のことについても大変詳しく、説明、案内をしてくださいました。

吉岡弘毅が、大阪北教会から、この高知へ移ってきたのは明治21年。『高知教会百年史』によれば、明治21年は、教会の日誌が偶然残っているので、明治21年1月1日に、現在の教会堂の位置に新しい会堂ができたこと、同年6月26日に吉岡牧師が着任したこともわかりました。
前日に、高知市民図書館で『 高知教会百年史』を閲覧していましたが、閲覧席でざっと目を通しただけでは、情報を拾いきれず、不安に思っていたところ、教会にまだ在庫があるそうで、一冊頒けていただきました。(頒価2,000円)
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吉岡弘毅牧師時代の長老には「片岡健吉」「坂本直寛」の名もあり、信徒の数は明治21年512名、明治25年578名。教会堂は現在の建物が三代目で、建物の向きは変わりましたが同じ敷地内だったそうです。
写真は、今現在の教会ですが、中央やや左寄りに見える蘇鉄(そてつ)や、その周りに配された石は最初の会堂が出来た時=明治21年当時からここにあるのではないか、とのことでした。

教会の場所は高知市本町、自宅は鏡川に面した西唐人町のこのあたり。直線距離で800m程。吉岡一家の子供たちも、両親と一緒に教会に通ったのでしょうか。教会にはオルガン、そして西洋音楽もあったでしょう。         

(つづく) 

吉岡愛著『父を語る』には、「土佐生活中に於て忘れんとしてわすれることのできぬ今一つの記憶は、大洪水の経験である」とあります。三つ違いの潔も、「前の川が氾濫すると畳を積み上げて二階に移り」「川上から色々な物が流れて来るのを眺めました」と書いています。

高知県立図書館の『高知県災害異誌』(1966序)によれば、明治23年9月11日の台風で、大きな被害が出たようです。新聞を丹念に調べたわけではありませんが、9月26日の『土陽新聞』には、「本月十一日ノ洪水ハ実ニ未曾有ノ変災ニシテ」と義捐を求める記事がありました。

現在の地図を見ても「唐人町」というのは川沿い一列だけの「町」です。一階の座敷が一面浸水して、二階で過ごしたという家は、この川沿いのどこかにあったのでしょう。
 

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「対岸の天神様」というのは、潮江天満宮でした。
 

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その天神様の手前にある大楠は地元の方は誰でも知っているようです。
その大楠の枝振りを見て、潔少年が、 3歳上の兄・愛(メグム)、8歳上の兄・徹と、この木によじ登ったり、川に向かって飛び込んだりしていた姿が浮かんできました。

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良く遊びにいったという旧城址、高知城。兄・愛も腕白仲間と探検に行った、などと書いています。

     

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そして、いよいよ最後の日に、潔の父・吉岡弘毅が、その二代牧師となった「高知教会」を訪ねました。
 

(つづく)


信時潔は、明治20年代に「高知市西唐人町」に住んだということですが、詳しい番地まではわかっていません。

「幸い元住んでいたあたりに宿が得られ」とあるのが、いったいどの旅館かと、事前に多少調べたのですが、決め手がなく、六十年も経っては仕方ないと諦めかけていたところ、鏡川沿いにある木造二階建ての旅館が目に留まり、ピンと閃きました。それは、割烹旅館「臨水」さんです。突然のことでしたが、事情をお話したところ、女将とそのお母様が快くお話をしてくださいました。
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現在の「臨水」は戦後山内家宝蔵跡に、同じ鏡川沿いの「潮江橋」の北詰に建てられた「本館」に対して「新館」として建ったもの。信時潔が昭和27年に宿泊したのはどうやら昭和初年に開業した「本館」だったようです。
(右写真は、現在の「臨水」です→)

現在の割烹旅館「臨水」のホームページにも、昭和初年に建てられた木造三階建ての旅館の写真が載っています。高知は空襲に遭い、町が焼けてしまったそうですが、この「本館」は地域の方の協力で残ったそうで、昭和27年頃は旅館として営業していたとのこと。

その頃の「宿帳は残っていませんか」と尋ねてみましたが、昭和50年代に二度にわたって鏡川が氾濫し、帳場も水害に遭ったため残っていないそうです。

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「その二階の縁側から、川をへだてて前に横たわる筆山(ひつざん)の姿を眺め」たその景色は、たぶんこのようなものだったのでしょう。赤い橋が「天神橋」です。「近所の豆腐屋の売子たち」が、天神橋の「欄干に腰掛けておやつに貰った油揚げをたべていたのが目に浮びます」とあるのは、「唐人町」についての、このページにある情報と結びつきました。http://www.massage117.com/pc-choumei-nishi-toojin-machi.html 明治時代の西唐人町は、確かに豆腐屋さんの町だったようです。
(つづく)
信時潔ゆかりの地を訪ねるシリーズの続編として、9月の連休を利用して、高知に行ってきました。

「120年後の高知」というタイトルは、信時潔が書いた「60年ぶりの高知」というエッセイにちなんで付けた物です。実はそのエッセイは、神奈川近代文学館の目録を検索していて、偶然見つけたものです。ネットでも公開されている同館の蔵書目録で著者「信時潔」として検索したところ

朝日放送編 『小さな自画像:“わが幼き日"101人集』 東京 朝日新聞社 1954.6.30(昭29)  (朝日文化手帖 29 )

がヒットしたので、閲覧請求してみたところ、信時潔 「六十年ぶりの高知」 が出てきました。

見開き2ページの短いものですが、0歳から5歳ぐらいまでを過ごした、高知についての記憶がさほどあるとは考えていなかったのでちょっとした驚きでした。

「私は明治二十年大阪江戸堀に生れ、一ヵ月たって土佐の高知に移り、六歳の時まで同市の鏡川に沿う唐人町におりました。そして昨年六十年ぶりで幼なじみの高知を訪ねました。」で始まる文章。(実際高知に住んでいたのは何歳から何歳までか、については、もう少し検討が必要だと思います) これを読んで以来、高知は気になる土地でした。

今年、まずは航空券を手配して、自分の決心を固め、現在わかっていること、調べたいことを整理して、高知に向かいました。

高知について、もうひとつ参考になるのは、吉岡愛著『父を語る』です。この本は、信時潔の父、牧師だった吉岡弘毅について、潔の三つ年上の兄、吉岡愛(めぐむ)が書いたものです。その一部に「吉岡愛伝 我が辿り来たりし途(自叙伝)」が掲載され、「我が少年時代 その一 高知時代」には、当時の様子が詳しく書かれています。

以上の資料を主な手がかりとして、信時(当時は吉岡姓)潔が約120年前に幼少期を過ごし、約60年前に再訪した高知を、さらに60年ぶりに訪ねる旅となりました。

三日間の滞在で、本当にいろいろなことがありまして、とても全部は書ききれませんが、ゆかりの地の写真をいくつか紹介いたします。
(つづく)

古書店に「海ゆかば」の初版譜が出ているのを見つけました。
既に同じものを持っていましたが、信時家に残っていたものなので、
それは著作者分として入手したもの。一般に流布したものとは事情が違います。

どんな人が持っていたのか、なにかその様子は読み取れないかと期待して取り寄せてみました。

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それが、これです。


前から気になっていたことがあります。

「日本近代音楽館」には、多くの作曲家、音楽家の文庫、コレクションがありましたが、この楽譜を持っている人は一人も居ませんでした。
このあとに発売された共益商社版は、いくつか所蔵がありました。

この初版譜は、奥付に「頒布の趣旨」が書かれています。「わかもと本舗栄養と育児の会」が組織した「教育資料会」が昭和12年11月に発行(非売品)し、全国の小学校に無料頒布したものです。

流布した目的、ルートが違うので、音楽専門家のところには届かなかったのでしょう。

それでは、どんな人が持っていたのか?

小学校で無料頒布した記録、などというのはあまり出てきそうにありません。

「わかもと本舗」は、いまもなお続く製薬会社ですので、会社の記録を調べていただいたこともあります。
いくつか「教育資料会」についての資料はありましたが、この「海ゆかば」の楽譜について、全国で何部を、どの学校に、どのようにして配ったのか、といった資料は見つかりませんでした。

そのようなわけで、当時の小学生として、この楽譜を受け取った人たちが居ないか、知りたかったのです。

届いた楽譜昭和12年発行、73年を経た楽譜にしては、汚れもシミも少なく、綺麗に保管されていたようです。

左側に二つ穴で綴じた跡があります。千枚通しで穴を開けて、お気に入りの楽譜を束ねていたのでしょうか。
そのほかには、書き込みなど、持っていた人の何かが伝わってくるような事は見つけられませんでした。
綴じて保管していたというのは、持ち主は楽譜にこだわりのある方だったのでしょう。

昭和12年にこの楽譜を入手し、あの時代を通り抜け、終戦を迎え・・・これを持っていた人はどんな暮らしをしていたのでしょう。この楽譜はここに至るまで、どんな所を通ってきたのでしょうか・・・・

当時の小学生として、この楽譜を持っていたという人、記録がどこかに無いか、引き続き探してみたいと思っています。(資料そのものではなく、情報を求めています。)












2月のある日、NHKの方から突然電話をいただきまして、FM放送出演のお話でした。日曜喫茶室という番組で今回は「校歌」がテーマとのこと。私がホームページ「信時潔研究ガイド」に掲載している信時潔作曲の約900曲の校歌リストが目にとまって、出演のお話が来たのだと思います。
校歌に詳しい方はほかにいくらでもいらっしゃるだろうと思いますが、研究発表というわけではないのですし、こんな機会は二度とないでしょうから、何事も経験、とお引き受けして録音に行って来ました。

共演するゲストはなんと、あの、小椋佳さん。最近ポピュラー音楽を聴いていないので、真っ先に浮かんだ旋律は「シクラメンのかほり」。「俺たちの旅」は主題歌とともにドラマの出演者の顔が浮かびます。自分よりちょっと年上の人々の「青春」にあこがれたものでした。井上陽水の「白い一日」も小椋佳作曲なんだそうですね。「オナカの大きな王子さま」も、アニメの絵とともに、思い出します。実は最近、朝日新聞の特集で、息子さんとの関わりについてのかなり感動的な記事を読んで小椋佳さんの名前を思い出して、ホームページなど訪ねてみたことがあったのですが。まさか放送でご一緒することになるとは思ってもみませんでした。校歌と小椋佳さん--実は校歌が、いくつもあるそうで、とても評判が良いのだそうです。(詳しくは放送を聴いてください。)

当初の放送予定は、3月の最終日曜だったので卒業、入学の季節にぴったりだったのですが、2月の放送が津波関連報道のため延期になり、「校歌」の話もひと月遅れで4月25日放送となりました。

録音当日、喫茶室に見立てた放送スタジオでは、「ウエイトレス」役のアナウンサー小泉裕美子さんが、本当に飲み物の注文をとりに来て運んでくださるので、ありがたく頂戴しました。喫茶室の「マスター」のはかま満緒さん、「ご常連」の轡田隆史さん、そして「お客さま」は小椋佳さんと私。おおまかな進行の打ち合わせはあったものの、それだけにとどまらず、話ははずみ、録音は予定時間を大幅に上回りました。時間内に収まるように編集されるようです。

「いま」の校歌の作者代表が小椋さん。過去の校歌、長年にわたって歌い継がれている校歌のことをお話しするのが私の役どころ、というつもりでしたが、うまく伝わったでしょうか。

番組の中で、私のリクエスト曲=おすすめの曲として、『SP音源復刻盤 信時潔作品集成』の中から、私が一番好きな曲「丹沢」(独唱 木下保)を。また、信時潔作曲の校歌を代表して「慶應義塾塾歌」をお届けします。

4月25日(日曜) NHK-FM 12:15から14:00 に放送されます。
日曜喫茶室 「今も校歌を歌えますか?」 是非聴いてください。
 
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NHK スタジオにて。
(左から 小泉さん、はかまさん、小椋さん、 右端は轡田さん。)

 

 

本サイトの「演奏奏会・イベント情報」ページでもご案内している、音友ホールの日本歌曲シリーズの <信時潔 没後45年に寄せて>は、久々の信時作品連続企画です。去る2月22日に行われた同企画第1回コンサートでは、ベテランから若手まで、日本歌曲の名演奏家が、これもべテラン伴奏者塚田佳男先生の伴奏で、しかも全曲畑中良輔先生の解説付きで、演奏されました。

畑中先生は、歌曲集「沙羅」の全8曲についても、それぞれご自身の経験や思いを話されたのですが、「沙羅」については次のようにコメントされました。


 
 一番の傑作「沙羅」。
  露(つゆ)一滴(いってき)落ちる音。
  音の無い世界を音で現わす。
  信時作品の中でも最高の歌曲だと思う。

これだけでも詩になりそうな、CDの帯に使えそうな言葉です。

実は私、これまで、歌曲集のタイトルは何故「沙羅」なのだろう、曲のスケール、完成度からいって、最高なのは、第一曲の「丹沢」だろうに、と思っていたのですが。

何度も聴き、歌い、指導していらして、今年米寿を迎えられた先生の言葉に、ふと気持ちが停まりました。

「信時潔」シリーズ演奏会は、このあと4月14日、6月18日の公演があります。名演奏と、名解説を、是非多くの方に聴いていただきたいと思います。








「海道東征」の上演記録をリストにしてみました。

東京音楽学校はもちろん、放送、アマチュア楽団・合唱団、藤原歌劇団、宝塚歌劇団、日劇ステージショウまで・・・上演データは現在62件あります。(イコール公演回数ではありません)


リストの掲載場所は
「信時潔研究ガイド」 http://home.netyou.jp/ff/nobu/index.html
の中の、「雑記帳」のページ http://home.netyou.jp/ff/nobu/page028.html
の 20番です http://home.netyou.jp/ff/nobu/page066.html#lcn020


地方での公演など、つかみきれていないものもたくさんあると思われます。
リストにない上演など、情報をお寄せください。
東京芸術大学附属図書館に「信時潔文庫」が設置されました。これを記念して、11月2日より、「海道東征:信時潔自筆譜展」が開催されることになりました。

さっそく初日に、様子を見に行ってきましたので、簡単にご紹介します。

展示日程など、詳しくは芸大による案内をご覧ください。 
チラシダウンロードもあります)
10月29日の朝日新聞でも紹介されています(こちらのページに詳しく書いています
 

ご案内を差し上げた皆様から、芸大の中って?図書館ってどこ?行けばわかる?などとよく聞かれましたので、そのあたりから、写真つきで、ご案内します。


geidai01.JPG
JR上野駅に着いたら、まずこの「公園口」に出ます。

横断歩道を渡って「東京文化会館」と「西洋美術館」の間の道を「上野動物園」に向かって進みます。




56e6436c.JPG
右側に交番が見え、その奥に噴水が見えてきます。

噴水の左側の道を通って、噴水(池)が終わってから公園内の道を左方向に曲がると・・・



                   geidai03.JPG
旧東京音楽学校奏楽堂の前に出ます。
この建物は、以前東京芸術大学の敷地内にあったものですが、老朽化が進み学内での役割を終えて、ここに移築・保存され、今は台東区の関係財団によって管理・運営され、演奏会や展示に活用されています。
信時潔作曲の多くの作品が、この「奏楽堂」で演奏され、両翼の小さい部屋にはレッスン室もありました。



geidai04.JPG
旧奏楽堂の前を通り過ぎ、車道に出たら左方向に見える信号のところが
芸大です。

図書館は道路左側の「美術学部」の敷地内にあります。



geidai05.JPG
ここが美術学部入り口です。駅からの所要時間は大体10分ぐらいでしょうか。






geidai06.JPG守衛所の奥左側に図書館の建物があります。

今は「海道東征 信時潔自筆譜展」の大きな看板も出ています。
(写真左側)




geidai07.JPG図書館の建物に入ってすぐ、一階ホールには校歌の一覧が展示されています。ウェブサイト「信時潔研究ガイド」に掲載している校歌リスト(信時裕子編)を今回の展示のために都道府県別に配列しなおしたものです。
多い県少ない県、母校で、甲子園大会で聞いたことがある校歌・・・などなど立ち止まってじっくり見入る方が多いようです。




geidai09.JPGgeidai08.JPGこのような関係写真が一階から二階にかけて、壁面に展示されています。信時潔の学生時代ばかりでなく、教職に就いている間の歴代の東京音楽学校卒業写真には、聞き覚えのある名前がたくさん見つかるはずです。


geidai10.JPG
自筆譜は、図書館の2階目録室で展示されています。






geidai11.JPG
展示ケースの脇のパンフレット棚に、カタログ(無料。全8ページ)が置かれています。











P1020753.JPG 感想ノートも置かれています。皆様も、ひとこと、どうぞ。






geidai12.JPG
美術学部から信号・横断歩道を渡った正面が信時潔にゆかりの深い音楽学部の入り口です。かつては奏楽堂もこの奥にありました。






 海道東征 信時潔自筆譜展

    会期: 2009年11月2日(月)~11月28日(土) *日祝日休館 
            平日 9:00~20:00、土曜 9:00~17:00
    会場: 東京藝術大学附属図書館 2階目録室  

  「海道東征」初演や、レコード録音に参加した上野児童音楽学園については、たびたび書いてきました。

  CD『SP音源復刻盤 信時潔作品集成』 の解説書p.121の「上野児童音楽学園」の項は、『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第2巻』(音楽之友社 2003)p.1069~1122 と、 『洋楽放送70年史 1925-1995』(洋楽放送70年史プロジェクト 1997) p.35 および当時の『音楽年鑑』を参考にしました。

 この秋、東京藝術大学の広報誌『藝大通信』19号(2009 September)に、 

 上野の杜の波瀾万丈  第八回 上野児童音楽学園/橋本久美子著

が掲載され、上野児童音楽学園について、詳しく、わかりやすく説明されています。

 とくに、今回は永く芸大百年史のお仕事をされてきた、橋本久美子さん(東京藝術大学音楽学部講師)が、学内の資料を丹念に調べ、また当時を知る方にインタビューした結果がふんだんに盛り込まれています。児童音楽学園で教鞭をとった講師や、児童合唱で非常に好評を得たこと、そしてなによりも、児童音楽学園から、東京音楽学校に入り、その後の日本の音楽界をリードしていった人々の名前がたくさんあがっています。

 この広報誌は東京藝術大学内で配布されますが、いずれは下記サイトでも、その全文が公開されるはずです。

  http://www.geidai.ac.jp/guide/issue/geidaimsg/index.html 

 

9月22日(火)、NHK教育テレビの「日めくり万葉集」という番組に篠田正浩監督が出演されます。
NHK 日めくり万葉集 Vol.9 (講談社MOOK)によれば、大伴家持の長歌と「海行かば」、そして信時潔作曲の「海ゆかば」にまつわる篠田監督の思いが語られるようです。

放送時間は22日(火)の朝5:00から5:05。日曜の朝6時から6時25分に、一週間分まとめて再放送があるようです。 このほかにBSハイビジョンでも放送されるようですので、NHKのサイトhttp://www.nhk.or.jp/manyoushuu/などでご確認ください。

テキスト(下記冊子)には、4ページにわたって、この歌の解説と篠田監督の言葉が掲載されています。

 

民主党、鳩山由紀夫代表の動向が連日報道されています。選挙速報番組や、そのあとの新聞報道などで「鳩山」「友愛」という言葉が出てくるたびに思い出していたのが、信時潔作曲「友愛の歌」です。

もっとも、これは現在歌われているらしい「友愛の歌」とは別物です。現在の「友愛の歌」の作曲者や歌詞など、詳細がわからないのですが(検索するとYOU TUBE 投稿作品などに繋がりますが何やらとてつもないものが出てきそうで恐ろしくて開けません)、たとえば「友愛創立50周年記念記念集会」というページには「友愛の歌」の歌詞らしいものが載っていて「♪雲開き~ 朝日は昇る~♪」とありました。

信時潔作曲の「友愛の歌」は、中河幹子作詞。冒頭の歌詞は「ふじしろく てんにそびえて」。作曲年は1963年頃とわかっています。自筆譜は二種、それぞれピアノ伴奏付の二部合唱と四部合唱譜があり、タイトルは「(友愛)」「(友愛の歌)」と書かれているものと、記載がないものがあります。楽譜の届け先らしき住所と名前が「文京区・・・(中略)・・・鳩山薫」とありました。1枚2つ折の「印刷譜」は、二部合唱(伴奏なし)で、タイトルは「友愛の歌」。出版事項(出版社、出版年)や会の名前などの記載は一切ありません。

これ以外の情報が無く、どのような事情で作曲されたのか、団体歌なのか、一般的な歌曲、合唱曲と考えれて良いのかも定かではなかったので、調査を試みたのは7年前のことです。インターネットで、「鳩山薫」さんを調べてみると、どうもあの鳩山家と関係がありそうです。

いきなり鳩山家に聞いてみるわけにもいかないと思っていたところ、共立女子学園の関係の方らしいとわかってきたので、共立女子大学図書館に連絡して調べていただきました。

作詞者の中河幹子さんは、中河与一夫人で、同学園で長らく教鞭をとっていらした方だそうです。
(財)日本友愛青年協会発行『友愛の旗のもとに-友愛青年連盟40年史』に昭和29年に「友愛の歌」を募集によって決定した記録があるそうですが、これは信時作品ではありません。(たぶんこれが、現在も歌われている「友愛の歌」なのでしょう)

学校法人の事務局や、(財)日本友愛青年協会の事務所では、それ以上詳しいことがわからなかったようですが、ここからは共立女子学園の石橋義夫学園長に直接尋ねてくださってわかったことです。

鳩山薫先生は永く共立女子学園の学園長・理事長をされ、また友愛運動にも尽力されました。初代会長の鳩山一郎先生が亡くなられたあと、第2代会長になられ、また友愛婦人会の会長もされていました。

信時潔作曲「友愛の歌」は、昭和30年代に友愛婦人会の歌として、鳩山薫先生が親しくされていた中河幹子先生に作詞を依頼。そして作曲は現石橋義夫学園長・理事長が、当時国分寺の信時潔宅に、依頼に行ったそうです。

この「友愛の歌」は婦人会内で歌われていたので、外部には出ていないのではないかとのことでした。これ以上の情報や、楽譜そのものは現在共立女子学園では確認できないようです。

b11b4d73.jpegもう一つの「友愛の歌」と区別するために、信時潔作曲 団体歌のリストでは
「友愛の歌(友愛婦人会の歌)」としてあります。



←「友愛の歌」印刷譜 表紙



 

「海道東征」パート譜の謎1 から読む

夏の午後、東京藝術大学附属図書館を訪ねました。事前に閲覧したい資料についてお願いして用意していたので、貴重資料閲覧コーナーで、すぐに実物に対面できました。

今回問題にしているのは、パート譜の袋に入っているもののうち、
  資料1. Kleine Besetzungと書かれた3パートのスコア
       (ホルンIII、 トランペット I と II、 トロンボーン I と II)
  資料2. 1のスコアのうち ホルンIII、トロンボーン I および II のパート譜
  資料3. コントラバス、ファゴット II のための 「Note」
  資料4. 五線紙に書かれたメモ (パート譜作成などについてのメモ書)

の四つの資料です。

まずは資料1を見ていきます。
資料を見るなり、藤田先生は「書いたのは私です」と。パート譜(資料2)もご自身で書かれたものだそうです。戦後の再演なので、出版された共益商社書店のスコアを使用していたことでしょう。そこで、今回は先ごろ作成した「海道東征」の研究用複製版を持参して、Kleine Besetzung の譜にある各パートの音と見比べていきました。 

まず第一章「高千穂」。T.11(第11小節)(p.2)のトランペット II は、原譜(ここでは共益商社書店のフルスコアを指します。以下同様。)では Aですが、Eになっています。これはホルンIVの音を持って来ているのだそうです。

第三章「御船出」のT.7(p.25)のトロンボーン I の A の音は、ファゴットの I が吹き(原譜では休符)、トロンボーン I, II が原譜のトロンボーン II, III の音を吹いています。 T.28から30(p.28)では、4本のホルンの和声を、ホルン3本に収めています。 原譜のT.48(p.30)のホルン IV の音はファゴットに吹かせています。 このようなケースでは、ファゴットのパート譜は改めて作られていないので、昭和15年初演以来のファゴットパート譜に書き込まれていました。同様に資料2のパート譜が無い楽器の音の訂正は、初演以来のパート譜中に色鉛筆やペンで書き入れたり、時には五線紙を切ったものに書かれてセロテープで貼ってあったりします。

資料3を見ていくと、第一章「高千穂」のT.13~14で、コントラバスが低い D を弾いています。これは、原譜のコントラファゴットの旋律(p.2)をコントラバスに弾かせたもので、五弦のコントラバスを持っていて、それを使ったのだろうとのこと。(四弦のコントラバスの最低音はE)

ほかにもイングリッシュホルンの音はクラリネットに入れるなどの対処がとられていました。

つまり、資料1~4の楽譜では、原譜のホルンを1本減らす(IVを省く)、トロンボーンを1本減らす(IIIを省く)、イングリッシュホルンを省く、コントラファゴットを省く。そのために、和声的に不足が無いようにそれらの音をほかのパートに振り分けてある、というのが、藤田先生のご判断でした。

今でこそ、演奏家はたくさんいますが、当時は吹き手が少なかった。「この手の職人芸ができないとショーバイできなかったですから」と藤田先生。

資料4のメモ書きに
Make new parts      
3rd Horn,  1st Trombone, 2nd Tronbone.
 Must change notes
1st Oboe, 2nd Oboe, 1st  Clarinet,  2nd Clarinet, 1st Bassoon, 2nd Bassoon, 1st Horn, 2nd Horn, 2nd Trumpet,  C. Bassi
 Celli only 1 place

とあるのは、この編曲の結果の処理の指示です。

パート譜の中には「Art University Tokyo」と名の入った五線紙があるので、戦後芸大関係の演奏に使われた別のものか?と一瞬思いましたが、藤田先生に確認すると「芸大の売店で買ったもの」とのこと。なるほどそれも有り得る、と納得。

「海道東征」の放送用録音のために、このような楽器編成にする必要があったインペリアル・フィルハーモニーとは、ABC交響楽団の約8割の人が移って結成されたもので、その後、そのメンバーの多くは読売交響楽団結成に向かっていきます。詳しくは木村重雄著「現代日本のオーケストラ : 歴史と作品」に書かれている、とのこと。(ということは木村重雄の記述内容が藤田先生のお墨付きということになります)

この「海道東征」編曲・・・というか、オーケストラの人員に合わせた書き換え・・・は、藤田先生が行ったことは確認されました。

それでは、このお仕事をされた藤田先生はその練習や演奏当日に立ち会わなかったのでしょうか?
藤田先生は、しばらく考え込まれた様子でしたが、やはり記憶は無い、と。ちょうど読売交響楽団結成準備に奔走していた頃で、大変忙しかったようです。読売交響楽団の発足は、この録音の4ヵ月後の1962年4月です。

今回の調査に、藤田先生にご一緒いただく前には、このような些細なこだわりに、先生をお呼びたてして良いものか、と躊躇しました。しかし本当に熱心に楽譜を見てくださり、スコアの読み方も怪しい私に、丁寧に解説してくださって、本当にありがたいことでした。

実は、私がこの「Bearbeited」とある楽譜を見つけたときに、ほとんどこれしかオーケストラ曲を書かなかった信時の拙い曲を、まともに響くように直したのかもしれない、と思いました。大規模な作品はなく、歌曲、合唱曲、ピアノ独奏曲を書いていた作曲家です。もしかしたら、後の世代から見れば、管弦楽作品として、マズイところがあったのではないか。この楽器にこれを吹かせるのはおかしいとか、この楽器はこのようには普通は使わないとか。それを、より良い管弦楽曲に「Bearbeited=書き直した」のではないかと思ったのです。しかし、今回の藤田先生からは、そのような言葉は一切出ませんでした。(思っても云わない、思っても書き直しはしない、ということかもしれませんが。)原曲に敬意を払い、原曲の響き(和声)を損なわないように、今回演奏するオーケストラで演奏可能なように、編曲されたものだったようです。

資料の閲覧を終えて、藤田先生が学生時代からよく知っているというキャッスル(芸大音楽学部の食堂)で、しばし音楽界、オーケストラ、芸大学生時代の話などを聞かせていただきました。帰りは、暑いのでタクシーで駅まで、と申し上げたら、「いえ、私は歩きます」とキッパリ仰った先生。私の父よりわずかに年上でいらっしゃいますが、今も頻繁に大阪でのお仕事に往復されるほどお元気なのは、車を使わずに、とにかく歩くからだそうです。なおお元気でご活躍くださるよう、願うばかりです。

 (この項終わり)

「海道東征」パート譜の謎1 から読む

藤田由之先生からのお電話の主旨は次のようなものでした。
 
1961年12月というのは、ちょうど読響のメンバーを集めていた頃。再演放送のオーケストラ「インペリアル・フィルハーモニー」というのはABC交響楽団から抜けたメンバーで、そのための編曲だということは、自分だったかもしれない。来てもらっても、どこかに出かけても良いので、その楽譜と、更に原曲のスコアを見れば、何のために編曲したのか、思い出せると思う。
 
ここまで仰っていただいたなら、楽譜を一緒に見ていただくしかありません。あれこれ算段をつけて、パート譜実物を所蔵している東京芸術大学附属図書館までご一緒いただき、閲覧することになりました。

 さて、ここで1962年再演放送のことを記録しておきます。
 
 再演までの経緯は、当時のプロデューサーだった阪田寛夫先生の小説「海道東征」(『うるわしきあさも』(講談社文芸文庫)に再録)に、詳しく書かれています。

 録音は1961年12月28日に行われ、1962年1月3日、キューピーマヨネーズの提供で放送されました。

 私の手元にある当時の録音テープでは、最後にアナウンサーが演奏者を読み上げていました。(阪田先生の小説「海道東征」の中で、信時潔が1962年の1月3日に「妙蓮寺」・・・というのは当時三男・三郎が住んでいた場所・・・で、テープで録音しながらラジオ放送を聴いたという、そのテープです。) 

 独唱 伊藤京子 蒲生能扶子 戸田敏子 中村健 中山悌一
 管弦楽 インペリアル・フィルハーモニー
 合唱 コールメグ ABC女声合唱団 東京コラリアーズ 
   西六郷少年合唱団
 指揮 前田幸市郎
 合唱指揮 大中恩
 解説 村田武雄
 
放送では、編曲については、とくに言われていませんでした。

なお、村田武雄氏の解説は、非常に的確に、わかりやすい言葉で、各章の内容を紹介しているので、テープから聞き取ったものを次に書き留めておきます。

 ------------------
第一章 高千穂 
 これは輝かしい国の賛辞を述べる全曲の荘厳な序章です。バリトンとテノールの独唱、ならびに合唱で歌います

第二章 大和思慕
 はるかに大和を想う優雅な抒情歌です。蒲生能扶子さん、伊藤京子さん、戸田敏子さんのメゾ・ソプラノ、ソプラノ、アルトの女声独唱と重唱です。

第三章 御船出
  朝日が出で、輝かしい船出の様をアルト独唱と合唱とで歌う「御船出」。

第四章 御船謡
  バリトンの中山悌一さんが、ピアノの伴奏で語るように船出を告げる、おおらかな中に素朴な楽しさのあふれる楽章です。

第五章 速吸と菟狭
  (解説部分のテープ録音が途切れているため聞き取り不能)

第六章 海道回顧 
  長い年月重ねた船旅の数々を想い起こして、独唱ならびに合唱で歌います。

第七章 白肩の津上陸
 海辺の激しい戦いの嵐と、進軍の様とを描いていきます。

第八章 天業恢弘 
  建国の大業の成った歓喜と祝典とを、独唱と合唱とで歌い寿ぐ終曲です。


以上のように、録音当時の状況を復習してから、芸大図書館へパート譜の閲覧に伺ったのは、7月も半ば過ぎの暑い日の午後でした。 (つづく)



 

 


 

「海道東征」パート譜の謎1 から読む

昨日「思いがけないヒント&チャンスが訪れた」と書いたのは、4月7日、日下部吉彦先生が構成・司会なさった日本合唱協会の演奏会で、信時潔作品も採り上げられ、面識を得たことが最初のきっかけでした。

かつて、小説「海道東征」(『うるわしきあさも』(講談社文芸文庫)に再録)を書かれた阪田寛夫先生から、日下部先生が昭和37年朝日放送の海道東征再演の折に、スタッフの一人としてかかわっていたと伺った覚えがありました。今回は、日唱に知り合いがいたこともあって、演奏会打ち上げ会場にお邪魔して、帰りがけに日下部先生にご挨拶申し上げたところ、「ちょうど昨日、合唱連盟の「ハーモニー」の新譜案内に『信時潔作品集成』の原稿を書いたけど、その信時さん?」などという話になったのでした。

その後、岩手大学の海道東征スコアの件などもあり、資料を何度もひっくり返して見直していたときに、ふと、芸大所蔵のパート譜のなかに、初演年代と違う年が書かれた譜があることに気づきました。

一連のパート譜(バス・テューバを含む)とは別に、戦後かかれたものらしい楽譜があったのです。
ひとまとまりのパート譜として袋に入っていたので、まったく由来の同じものだと思い込んでいたのですが、いざ見直してみると、違うグループがあったのです。

スコア風のものが1部と、それに関連するらしいパート譜(3部)がありました。
スコアの表紙に Kleine Besetzung, Kaido-Tosei / K. Nobutoki / Bearbeited  von  ・・・ とあるところまでは、読めたのですが、そのあとの名前は、達筆過ぎてすぐには読めませんでした。 
五線紙は、数種類あるようで、よくある「文房堂」などのほか、「The Art University of Tokyo」とあるものもあります。楽譜末尾の日付は「1st December 1961」とあります。

表紙の筆記体のサインをはじめとして、全体的にドイツ語を書きなれた様子(よく使われる音楽用語や英語ではなくドイツ語だったので)なので、時代と状況、交友関係から考えて、Manfred Gurlitt ではないかと、彼のサインを探して見比べたりもしてみましたが、どうも違います。 しかも書きなれた風のドイツ語と同じ文字の勢いで日本語の「高千穂」「大和思慕」といった漢字も書かれているので、やはり日本人か・・・?しばらく悩みました。

ある時それが Y. Fujita ではないかと思いつき、オーケストラ楽譜に・・・FUJITA とは?・・・それはやはり藤田由之氏しかいない、と思いはじめました。実はかなり以前のことですが、まったく別の仕事で藤田先生のお宅をお訪ねして、日本のオーケストラ、とくに近衛秀麿と彼が関わったオーケストラのことなど、お話を伺ったことがありました。オーケストラの楽譜を書き換えて「近衛版」として演奏していた話を思い出したのですが、その弟子であった藤田由之氏自身もオーケストラ作品の編曲などをしたのかどうか。音楽評論家として知られる藤田先生がスコアの放送用編曲?・・・それについてはいまひとつ確信がなく、数日考え込みました。その時です。朝日放送再演の折に放送局の仕事をしていらしたという日下部先生に、伺ってみようと思いついたのです。幸いお名刺を頂戴していましたので、すぐに連絡がつきました。もちろん長いこと放送局、そして音楽界でお仕事をなさっていらして、その中のひとつの放送の細部を覚えているか、などと聞かれても困ってしまうだろうとは重々承知していたのですが。なにか少しでもヒントがあればと、勇気を出して、連絡してみたのです。

折り返しのお返事で、「1961年再演(1962年正月放送)の折に、オーケストラ関係のことを藤田由之さんにお願いしたことは事実」とのこと。しかも近いうちに、その藤田氏と仕事で会う機会があるので聞いてみましょう、とまでおっしゃってくださいました。

そして、6月29日の夜、「日下部さんから話を聞きました」と、藤田先生ご自身から、お電話を頂戴したのでした。 (つづく)
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CD『SP音源復刻盤 信時潔作品集成
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企画・構成・復刻:郡 修彦
構成・解説:信時裕子
CD6枚組、別冊解説書
(B5変形判 全144頁)
15,750円(税抜15,000円)
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